新版 雑兵たちの戦場

新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り

著者:藤木久志 発行:2005.6

朝日新聞出版

誰にも先祖はいる。貧富も家柄も関係なく先祖はいる。1世代25年と仮定して、10代前(250年前)の先祖は1,024人、15代前(375年前)の先祖は32,768人、20代前(500年前)の先祖は1,048,576人、25代前(625年前)の先祖は335,54,432人、当時の人口を超えます。実際は近親交配などで倍々には増えないけど、誰にも等しく先祖はいます。これって凄いことですよね。ということは、誰であってもきっと歴史上の著名な人物に血筋は繋がっているよね。とてつもない困難な時代のなかを子孫を残したご先祖様って、特にお母さん方、貧富も家柄も関係なく、その偉業に敬意を表さずにはいられません。先祖の誰か一人欠けても僕はいません。

僕の子孫がどれだけ続くかわからない。でも先祖は誰にも等しく続いている。そんなことを考えていたら、戦国乱世を生き抜いたご先祖様に想いが飛んだ。その多くは貧しき庶民だったと思うけど、どうあれご先祖様は子孫を残した。庶民目線での戦国時代に興味が湧いた。地域地域に小さな山城跡がある。この山城跡と当時のその界隈の庶民の暮らしはどうだったのか。英雄目線でなく庶民目線での戦国乱世・・・僕に関係があるのはほとんどそっちだよな(笑)・・・そんなわけで、庶民の戦国時代に興味があるのです。

読んで心にぐっときたところ

連歌師の宗長は、永正元年(1504)九月、今川軍兵から聞いた武蔵野(東京都立川市辺)の戦場の様子を「行かたしらず二千余、討死・打捨・生捕・馬・物の具充満」と書いていた。(P23~24)

北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を超え、春日山城(上越市)近くまで侵入し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。(P28)

おそらく雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、たとえ懸命に戦っても、恩賞があるわけでもない。彼らを軍隊につなぎとめ、作戦に利用しようとすれば、戦いのない日に乱取り休暇を設け、落城の後には褒美の略奪を解禁にせざるをえなかったに違いない。(P30)

1994年の特派員記事がある。この戦場の町を、自動小銃で武装し巡回するザイール民間防衛隊が、地元の難民や市民から外国の報道陣にまで、公然と脅しや強盗を働いている。(中略)給料代わりの略奪というのも、上司に命じられた組織ぐるみの略奪というのも、その稼ぎによる分け前の配分というのも、16世紀日本の戦場にそっくり当てはまりはしないか。(P31)

小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指図)で、春の2月から3月にかけて、20~30文ほどの売値で、人の売り買いが行われていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。(P35)

その上杉軍が関東へ攻め込んだのは、「万民餓死に及ぶ」といわれた永禄8年(1565)の冬11月、越後へ引き揚げたのは翌春の3月であった。現代の出稼ぎさながらに、冬に関東に出て、春に国へ帰っていたのである。(P96)

農閑期になると、謙信は豪雪を天然のバリケードにし、転がり込んだ関東管領の大看板を揚げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままだった。こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。(P99)

越後人にとっても英雄謙信は、ただの純朴な正義漢や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主、ということになるだろう。しかし襲われた戦場の村々はいつも地獄を見た。(P99~100)

もともと戦場は、春に飢える村人たちの、せつない稼ぎ場だったのではないか。(P103)

戦争のときだけ必要な傭兵を、できるだけ大勢集めるには、農閑期に戦うしかなかったし、食料の乏しくなる端境期の口減らしの意味もあった、と考えてみた。(P109)

あくまでも農業が主で、暇な冬場や苦しい端境期だけ、なんとか食いつなぐために、戦場に出稼ぎする百姓兵士たちは、けっして武士の成り損ないだったわけでも、みな侍になりたがっていたわけでもなかった。(P114)

城は民衆の避難所   従うべき主君は、その砦がすぐ近くにある主君であり、騒乱が通過するときには、住民全員が逃げ込み、閉じこもることのできる避難所の上で、守備し監視する主君である。したがって、封建制とは、まず第一に城なのである。(P153)

戦いにおいては何一つ看過されることもなく、いっさいのものが焼却、破壊されて火の刃(の犠牲となる)ので、集落や村の人々は全員が籠城する以外に(生き延びる)方法とてはなかったのである。(中略)城に避難した人々の恐れと心配は、自分たちが全員殺されるか、あるいは捕虜として連行されるか、また町や村が焼き払われ破壊されて、自分の家や住居に帰れなくなるか、ということであった。(P165~166)

もともと中世の村には、自力で村や地域の平和を守る掟があり、勝手に侵入するよそ者に対しては、実力でその武装を剥ぎ取り、村から追い出し、抵抗すれば殺す。それだけの武力を村も備えていた。よく知られる村の落人狩りは、その一環にほかならなかった。(P179)

もし戦争が戦国社会の最底辺を支える生命維持装置であったとすれば、戦場の閉鎖は新たな労働市場の開発を必要とした。「豊臣の平和」に引き続いた朝鮮侵略は、その第一の吸収先であった。(P228)

秀吉は大がかりな普請と並行して、朝鮮侵略の戦場を開き、戦場の閉鎖が引き起こす社会不安を避けようとしていた。(P240)

あいつぐ築城という巨大な公共事業によって、戦場に代わる新たな稼ぎ場が、どれだけ用意されていたか。つまり戦場を閉鎖し平和を保ち続けるために、日本社会がどれほどの規模の公共投資(社会の富の再配分)を強いられたか。(P246)

都市の普請ラッシュ、つまり新たな大規模公共事業にありつこうと、都市の普請場へ向かう人々の奔流は、戦場の雑兵から都市の日用へと、秀吉の予想した流れをはるかに超えて、村の地滑り的な荒廃を引き起こしながら続いていた。(中略)秀吉は都市の治安の問題でも、ただならぬ難問を突きつけられていた。(P248)

16世紀末から17世紀初頭にかけて、どれほど多くの日本人が東南アジア世界に散っていったかについて、数々の貴重な証言がある。(中略)おそらく10万人以上にのぼり、東南アジアに住み着いた人々もその1割ほどはいた(中略)自ら海を渡ったのは、海賊・船乗り・商人・失業者・追放キリシタンなどで、また西欧に雇われて渡海したのは、伝道者・官吏・商館員・船員・傭兵・労働者・捕虜・奴隷など、じつに様々であった。(P269~270)

生きるだけで大変に厳しい社会。ときには地獄のような厳しい状況をかいくぐって、逞しく生き抜いた先人たちの、ご先祖様の人間力に、心から敬意を表します。時代は変わってもカタチを変えて、共通するような事案があるのだなと、だからこその現代社会なのかと、先人たちの英知に新たに目を覚まされた思いがします。

本書を一読することをお勧めします。

(2019 年の32冊目)

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