愛宕山城 / 石神井城

11月19日

道中にて。銀杏並木が美しい。

仕事で、小平市花小金井を訪問しました。
時間が出来た、付近の城跡を探索するぞ。

13時45分頃、愛宕山城跡(練馬区上石神井3丁目)に到着。

遺構は特に見当たらず・・・。
もしやと思ったのは、早稲田高等学院敷地内の北東側、石神井川沿いのRC土留上部の法面が名残りかな?外から見ると・・・と思えた程度・・・違うかもですが。
調べた限りでは城(砦)の縄張り等は確認できてないけど(区の教育委員会の史記等にはあるかも)、小規模な平山城といった規模でしょうか。
城の由来は諸説あるようですが、元々は北東約600mの距離にある豊島氏の石神井城の支城で石神井川や南方を監視していたが、1477年に太田道灌による石神井城攻めの際に奪われて、城攻めの陣地として使用された、という説が有力なのかな?と思いました。
平成4年に発掘調査が行われ、城跡(砦跡)は300~400m角で、コの字型の堀に囲まれていたようです。
石神井城の落城後に廃城となったようです。

14時25分頃、石神井城跡(練馬区石神井台1丁目)に到着。

北方より、三宝寺池越しに石神井城跡を見る。
現在は練馬区民の憩いの場である石神井公園の一部として、550年前の豊島氏と太田氏の死闘は忘却の彼方に忘れ去られ、まさに兵どもが夢の跡となっています。

案内板によると、

石神井城跡
 石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、南北朝時代には、石神井群を領有していました。
 室町時代に、城主の豊島勘解由左衛門尉(泰経)は、関東管領の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために、顕定を援助していた上杉定正の重臣である江戸城主の太田道灌により攻められ、文明九年(1477)四月、落城したと伝えられています。
 石神井城は、三宝寺池と石神井川の低地に挟まれた舌状台地にあります。その周囲は空堀や土塁でめぐらされており、今でも土塁と空堀を見ることができます。
 のちに、落城によって照姫が水中に身を投げたという物語が作られ、語り継がれています。
※東京都の史跡に指定されています。
 令和三年(二〇二一)三月

 練馬区教育委員会

とのことです。

案内板によると、

石神井城 主郭跡
 中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三宝寺池側は崖で、残る三方には堀と土塁が築かれていました。内部(内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。
 平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。堀は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面U型に関東ローム層(赤土)を掘り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることが分かりました。水が溜まっていた痕跡が無く、空堀です。また、掘り上げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛上げ、土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半から15世紀に作られた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており、小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
 調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内部建物で居住していたことの可能性を示唆しています。

 平成15年11月
 東京都 練馬区教育委員会

とのことです。


城は道楽でなく、必要に迫られて造っている訳で、戦国時代というのは、武将はもちろん民百姓も含めて、現代から想像するとその厳しすぎる世界は・・・想像を超えていますね。

お腹が空いちゃった ( ´艸`) 。

16時25分頃、遅い昼食で大好きな天津丼と餃子をいただきました。

17時20分頃、帰る途中で横田基地の青い誘導灯に誘われて。

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