村山城跡を歩く

6/9 12:00頃、スカーレット号 (CT125 ハンターカブ)にて、村山城跡(西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷)と伝わる福正寺さんを訪れました。

南に延びる尾根の先端の自然地形を利用した砦規模の城跡でしょうか?

北側の細い尾根続きに堀切を設ければ半ば独立峰となる地形。

東側の法面下。
更に東には小川が流れる。

南側の法面下。

西側の法面下。
更に西には小川が流れる。

南東側の法面を見る。
福正寺さんにお参りします。

一般的に、歴代城主の菩提寺が、新しい領主の庇護のもとに、かつての城主の屋敷跡に、寺の伽藍が広がっているのは、時の流れとしてよくあるケースです。

法堂や客殿の裏の墓地内に、村山土佐守とされる墓があります。

西側の法面上より南南西方向の米軍横田基地方面を見る。
C5ギャラクシーが離陸するところでした。
要衝である多摩川の対岸、丹沢や奥多摩の峰々を見渡せます。

北側の法面上の土塁?より南東方向を見る。
右手には、落ち着いた墓地が広がっています。
城跡内の墓地というのも歴史浪漫がありますね!

東側の法面上の土塁?を見る。

南東側の急峻な法面。

兵どもが夢の跡、城の遺構と断定できる資料や遺構は乏しいようです。

伝承によると、
村山城は武蔵七党のひとつ村山党の本拠地で、庶流には金子氏・宮寺氏・山口氏・仙波氏があるとのこと。
平安時代には城跡の南側の緩斜面に館を築いたことに始まり、時代の移り変わりとともに、非常時の砦であった後背地の丘陵突端に、居館機能を移して城塞化していったのではないかと推察します。
村山氏は板東平氏の一門で、関東の勢力図が一変する各時代を乗り切ってきた。
源頼朝の挙兵・新田義貞の挙兵に参戦して主力を担い、武州平一揆の敗戦等で衰退し、関東管領の山内上杉氏の重臣の大石氏の旗下となり、大石氏が北条氏に臣従すると村山氏も北条氏旗下となり、北条氏の滅亡後、村山氏は帰農したとのことです。

追伸

瑞穂町の郷土資料館にて、

瑞穂町史(¥8000)と瑞穂町文化財マップ(¥200)を購入しました!
窓口の方に「町史は高いから売れないでしょ?」と言ったら、「ここ5年で町史を買った方はお客さまだけだと思います」とのことでした・・・(笑)。
町史には武蔵七党、村山氏、村山氏館跡ほかについての記述があり、文化財マップには村山城跡の南側に存在した館跡の位置情報も記載されています。
ネット情報は間違った記述も多いので、公文書の郷土史家・城館研究者の成果は、出自もはっきりしていて、とても参考になります。

近いうち、村山城跡の追加調査や村山氏館跡を歩いてみたいと思います!
小さい城跡や館跡って、面白いですね!

菅寺尾城跡を歩く

6/8、休日出勤で近くに来ました。
数年前、近くの行政機関に車で来たときは、駐車スペースと時間の関係で城跡を歩くことが出来ず、今回はバイクで来城しましたぁ。
城跡は、川崎市多摩区菅馬場二丁目にあります。

城跡の中心部は上記ではなく、下記の十字付近かなぁ?と思っています。

築城者は寺尾若狭守というのが通説らしいのですが、その他の詳しいことはわかりませんでした。

城跡の北東角部より西方面を望む。

城跡の北東角部より南方面を望む。

城跡西側の遊歩道(空堀)より北方面を望む。

城跡北側の遊歩道(空堀)より東方面を望む。

寺尾台団地の造成で切土された付近の空中に城の本郭があったのでは?などと想像してみましたが、どうなんだろう?郷土史や城郭研究者の刊行物で調べてみたいなぁ。

城跡の南側で 平安時代初期 のお堂跡が出土したとのこと。

この基壇は、発掘調査の成果をもとに復元したものらしい。

EVERY 14回目オイル交換

トランポ・エブリイさんの
5000キロ毎のオイル交換(14回目)
型 式:HBD-DA17V
年 式:2020年2月
走 行:69901キロ
年平均:16131キロ
月平均:1344キロ
日平均:44キロ
ペースで走っています。

スペアタイヤのバルブが劣化していたらしく(エブリイあるある?)、交換していただきました。知らなかったら非常時にスペアタイヤが役立たずで困っていたところでした。
Σ( ̄□ ̄|||)

プラのマグカップをいただきました。
工場:サトウオートサービス
所在:東京都あきる野市
サンキュー!

裁判官の爆笑お言葉集

裁判官の爆笑お言葉集
著者:長嶺超輝
発行:2007/3 ( 1刷)
   2023/10(39刷)
幻冬舎新書

割と有名な本だけど興味もなくて、書店で手にすることもなかったのですが、なんと僕自身が裁判員裁判の裁判員を経験するという、有権者ベースで一年間に裁判員を経験する確率は17700人に1人(裁判員制度ナビゲーション/最高裁判所発行より)という僕としては驚天動地の超貴重な経験をすることができました。

メディアの報道を見て、刑が軽すぎるだの重すぎるだのと言いたい放題だった自分が、裁判員を経験した後は、見方が大きく変わりました。

縁とは不思議なもので、3人の裁判官や6人+2人の裁判員、法務省職員、検事、弁護士、被告、被害者、証人等、僕の普段の日常生活では絶対に知り得ない人達との裁判所内での集いは、僕の人生の転機ともなる出来事だったと思います。

本書は裁判所へ向かう途中の書店で、ふと手にしたものです。初版発売当時は、裁判員裁判(2009~)は始まっておらず、今日の刑事裁判とは異なる面もあるとは思いますが、自分が裁判員を経験する前は全く興味のなかった本が、経験後は違う見方で読み進めることが出来たことに、自分でも新鮮な驚きがありました。

「法という道具を使って、人が人を裁く」とはどういうことなのか、民主主義国家における裁判とはどうあるべきなのか、将来もし自分が裁判員になったらどう振る舞うのか、といったことに、少しでも思いをはせていただけるなら、著者としてこれほど幸いなことはありません。P10

向かって右側の左陪席には、裁判官になって5年以内のフレッシュな判事補が、左側の右陪席にはそれ以上のキャリアがある中堅裁判官が座ります。そして、判決文の案は若手の左陪席が書くことになっています。P96

合議法廷での判決は裁判官全員一致の結論として言い渡されます。(中略)評議で意見が割れたなんてことは、公には一切明かされません。評議の内容は非公表。裏でどれだけ揉めたとしても、まるで何もなかったような顔をして、裁判長は「全員一致」の結論として判決を言い渡さなければならないのです。P114

今、この場で子どもを抱きなさい。
わが子の顔を見て、二度と覚せい剤を使わないと誓えますか。

覚せい剤取締法違反(使用)の罪に問われた被告人に向って。
P118

本件で裁かれているのは被告人だけではなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。
こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを、行政の関係者は考えなおす余地がある。

実母との心中を決行し、自らは生き残ったために承諾殺人の罪に問われた被告人に、「献身的な介護で尽くした息子を、母親は恨んでいない」として、執行猶予つきの有罪判決を言い渡して。
P126

いい息子さんとお嫁さんなんだから、ふたりの面目をつぶすようなことは、二度としてはいけないよ。
入水心中を図った老夫婦のうち、車椅子の妻(当時80歳)のみが死亡した事件。承諾殺人の罪に問われた84歳の夫に対し、執行猶予つきの有罪判決を言い渡した後、50歳の息子を法廷内に呼び寄せ、握手をさせて。
P128

もうやったらあかんで。
がんばりや。

窃盗の罪に問われた被告人に、執行猶予・保護観察つきの有罪判決を言い渡しての、閉廷後の出来事。被告人が退廷するときに、一段高い裁判官席から身を乗り出し、被告人の手を握りながら。
P130

裁判所としても太郎君が心配なので、できるだけ軽い刑にしました。
真面目に務めれば、さらに早く出られます。フィリピンへ帰ったら、いいお母さんになって。

出入国管理及び難民認定法違反(在留期間超過)と、覚せい剤取締法違反(譲渡)の罪に問われた、フィリピン国籍の女性に、懲役2年の実刑判決を言い渡して。
P132

無罪判決や国を負かす判決を出すことが多い裁判官は、いきなり不自然な職場異動を言い渡されたり、出世・昇給が頭打ちになったりするナゾの現象が目につきます。単なる「職場のイヤガラセ」では片付かない問題です。P138

「求刑の8掛け」で懲役などの年数が決められているように見えるのは、裁判官の量刑相場を検察官が知りつくしていて、あらかじめその2割増しで求刑しているから・・・・・・?P172

興味深く、リアルに、読ませていただきました。

裁判官の法廷での被告人への言葉を読んでいると、その情景や事件の背景が浮かんできて、電車内だというのに目頭が熱くなってきてしまいました。

ここには書きませんでしたが、本書での凶悪犯への一線を超えた叱責など、裁判官も人なのだと、これも実感として思うところでありました。