若洲風力発電施設

5/20、
あさイチでエブリイさんのオイル交換へ。
(5千キロ毎の)
いつもの車屋さんに作業をお願いします。
リフトアップしたら下廻りは割とキレイ。
なんか萌える(いい年齢して)光景です。
いやぁ・・・全く廉価なお車なんですが。
( ̄m ̄〃)ぷぷっ! 自慢度ゼロっす!
(むしろ下のリフトの方が凄い)

新車で3年3カ月で5万キロ余り・・・、
自家用の割にはよく走る方かなぁ・・・。
(車屋さんが大袈裟に驚くもんで)

帰宅後、
切抜き待ちの新聞の山の整理をしてたら、
そうそうあった、若洲公園の風力発電が、
来年度に撤去されちゃうんだったっけか。

壊した後は太陽光とは・・・残念だなぁ。
ひょいと出て来た(記事が)のは、
「観ておいでよ」「ユ~行っちゃいなよ」
と、幸運の女神様が言った気がしました。

今宵はいつもの所用がございまして、
24時30分に任務終了。(^O^)/
それからエブリイさんで、
夜のハイウェイを飛ばしまして、
(跳々~軽貨物~体感速度のみ~(笑))
夜景の綺麗な道中の東京港臨海道路より、
ジェイウィンド東京湾臨海風力発電所
東京風ぐるまの漆黒の回転に感動しつつ、
東京ゲートブリッジはお上りさん状態で、
25時30分に若洲公園付近に現着です!

でかぁ・・・もう見てるだけでドキドキ。
風力発電の風車は本当に格好いいと思う。
構造物として知的で力強く魅力的かなと。

残念ながら、今は稼働停止中なんですが、
先程稼働中の風力発電所を望遠できたし、
夜の巨大風車の回転を想像してみました。

スマホでズームしたら航空灯がピカッと。
ちょっと宇宙空間っぽい感じに見えます。
来年度の取壊し後に太陽光発電新設より、
僕的には風力発電を once again !
_(_^_)_ なんて思ってしまいました。

余談ですが、
反対車線でパトカーがじっとしています。
何やってんだろ(どっちがだよ)・・・。
( ´艸`)

27時にご帰宅・・・眠すぎだぁ・・・。
奥方様に「只今帰りました」と帰宅報告。
酒も飲まずに爆睡いたします。
(^.^)/~~~

江東区HPより若洲風力発電所の
スペックを転載させていただきました。

メーカー ノルデックス社(ドイツ)
定格(最大)出力 1,950kW
年間想定発電量  270万kWh
高さ       100m
ブレード(翼)の長さ 40m
発電し始める風速(カットイン風速)
         毎秒4m/s
定格出力で発電する風速
         風速12~25m/s

戸吹城跡(二条城址)

5/3
左入城址を後にして、戸吹城跡に向かう。
別名は二条城・根小屋城とも言われます。

八王子市側より、案内板に誘導され、
16:10頃に現着。
やはりというか駐車スペースはなし。
( ´艸`) 昔来た時もそうだった~。
他人様の家の前に置くわけにもいかず、
小川の橋の上に置かせていただきました。
_(_^_)_
せいぜい3機が限界でしょうか。
(車は置く場所が見当たらず)

裏庭の通路のような散策路を歩いてゆく。

地図下側の建設会社から北に歩き、
そこからすぐに城域に入ります。

山歩きに不慣れな私のような人は、
特に単独ではあきる野・八王子市境まで。
(地図上の点線まで)
その北側は45度~80度の断崖で、
比高差は70mぐらいはあります。
北曲輪に繋がる尾根は崩落しており、
散策で行くのは極めて危険で無謀です。

北曲輪は北に向かう四本の尾根の付根で、
そこから南に逆T字形の縄張のようです。

東京都教育委員会の『東京都の中世城館』
という本によると、
西へ向かう市境の散策路は古道で、
この古道に対応して築かれたようです。
(縄張図は本に出てるけど転載禁止で
 ざっくり航空写真のとおりですね)
自然の地形を巧みに利用しつつ、
幾本もの土塁や空堀で防御されています。
築城時期は武田軍が侵攻した永禄12年
(1569)頃との説があるようです。
少数の守備兵で敵を抑える目的の城で、
ごく短期間の使用であったようです。

城跡中枢へ向かう一本道。

尾根南側の掘平地。

案内板は地図上の二条城表記の辺りです。

小さなお宮が祭られています。

お宮裏は土塁です。

土塁の北側はV字の空堀で、

その向こうは断崖絶壁です。

遠くにあきる野の街並みが望めます。

木々の向こうの斜面は80度はあるよ~。
その上の細尾根は北曲輪に繋がっている。
落ちたら・・・誰も通らない・・・。

あきる野側に移動します。

サマーランドの駐車場から城跡を望む。
北曲輪の尾根の形状がわかります。

秋川の北側より戸吹城跡の全景を望む。

戸吹のジモティーの人々は、
北条さんの厳しい命令で、
築城に総動員されたんだろうなぁ~。
でもって武田の来襲に備えて、
その後の上杉・前田来襲はどうだったか。
民百姓は辛いよね。

乱世で生きるのは大変だ・・・。

ふとそんなことを想いながら・・・。

左入城址

5/3
昭島の用事が済んでコンビニ休憩。
コーラを飲みながら城跡を検索してみる。
場所柄、滝山城跡関連がほとんどだけど、
左入城址の書き込みが目に入りました。
ムラウチのところに城跡が・・・?
行ってみるか・・・ということで、
15:40頃に現着です。

書き込み通りに立派な石碑があります。
この場所に左入城があったのですね。
当時と今では道が全く違っています。
道の芯には旧道があると思いますが、
幅が城跡を飲み込むばかりに広がって、
高速道路のインターや敷地の掘平で、
異次元のスケールで造成されています。
地山の基本的な山塊は残っているわけで、
旧道、河川、集落、旧地名、伝承、
自然地形他からの想像はロマンありです。
小さなお城の歴史は謎に包まれており、
築城者、主の変換、合戦の記憶、廃城、
現城主の村内氏の創業(築城)を経て、
左入城は生きていると思いました。

黒御影の立派な石碑(高いゾ~)です。
ピカピカで反射しちゃって読みにくい。
(従業員が拭いているんだろうな)
サトちゃんやニトリや俺も写ってるし。
下に碑文を転写しました。

左入城跡
往古この地に左入城があった
中丸淡路守の居城であったと伝えられている
左入城は東西約四百m、南北百七十五mの卵形をなし、東南及び西に幅四〜五十m、深さ約九mの空堀を巡らして、周囲は凡そ二千mに及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられてきた
また、これより西方五百mの所に淡路守居城の折、調馬の用に供した馬場の址がある
尚、近年発見された、伊能忠敬の日本地図にも この地を「左入村中丸」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明記されている
右の史実を後世に伝えるために、この碑を建てる
平成十七年五月
 村内家第十七代当主 村内道昌

この石碑のおかげで、
こういう城跡もありだな・・・と思える。
ムラウチは現代の戦の城ともいえるかな。
なんて、ハイボールを飲みながら・・・!

柏原城跡(上杉砦跡)

4/29、大宮方面へ赴く。
帰路の山並みに城跡の気配を感じた。
集落の統治や防衛拠点に絶好の山容かな。
一寸コンビニ休憩で、付近の城跡を検索、
ビンゴ、やはり近くに城跡があるようだ。
せっかくなので、立ち寄ってみようか。
この行き当たりばったり感が俺なのだ。
スマホの検索地点をナビに登録して、
郊外の住宅街の裏山を目指します。
ほどなく現着、15時頃っす。

駐車場は付近に見当たらず・・・、
仕方なく往時の水堀跡?の水路の橋上に、
スカーレット号を駐機しちゃいます。

上図の下側から登ってゆきます。

二ノ郭と本郭の間の空堀を進む。
昔は深くて急で高い土塁だったでしょう。
小さいけど、素晴らしい空堀ですね。
突き当りを右へ、本郭を散策しました。

甲冑を着た武将たちがここに居たんだね。
夢中で生き夢半ばで討ち果てた人の痕跡。
郭の掘平地や土塁を見ていると感じるね。
よく今に残っているものだと感心します。
城とは、土で成るものですね。

二ノ郭には稲荷社が祭られていました。
お参りさせていただきました。
小さな城跡は気軽に行けるのがいい。

小さな城跡の全景・・・。
今は鬱蒼として木々が生い茂ってるけど、
いつも思うけど、 兵どもが夢の跡、
人が生き死にを賭けて戦った場所。
城跡は貴重な文化財で、観光資源ですが、
当時は関係者以外は立ち入り不可の、
最高機密の防衛拠点だったんだよね~。

ふらっと僕みたいのが探索できるなんて、
いい時代になったものだ。
城跡で月夜に琵琶でも弾けたら風流だな。
・・・怖いか・・・( ^ω^)・・・。

観音様カブミーティング

4/9の本日は、『カブで楽しむ大人の自由時間(3/22メンバー加入)』主催の【武相卯年観音開扉めぐり・かんのんさまカブミーティング】が町田市木曽西にある覚圓坊というお寺さんで13時から開かれます。

参加資格である3箇所以上の御朱印は、先週の観音様ツーリングで既に条件を満たしていますが、一つでも多くの御朱印を拝領したいと思うのは、人情じゃないすか(笑)。昔も今も人の収集本能に寄り添った企画運営は不変のものだなぁ~と、妙に親近感が湧いてしまいました。

8:15に自宅を出発。
道中のガソリンスタンドで給油&空気圧チェック。
9:15に百草園駅前のスーパーにて小休憩。

自販機で缶コーヒーを購入。
浜辺美波さんてホントに美人だねぇ。
(赤カブに乗ってたら格好いいなと妄想)

蒸しパンと赤飯おこわ&いなりセットを購入し、ベンチに座って朝食タイム。

9:35、日野市落川の眞照寺さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

9:55、日野市百草の松連寺さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

10:20、多摩市関戸の観音寺さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

10:50、八王子市大塚の清鏡寺さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

11:25、町田市真光寺町の観泉寺さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

駐車場には多摩ナンバー(小型登録)のスーパーハンターカブが駐機しています!
凄い機体です。高速道路も走れるし!
魔改造費はハンター1.5台分ですとぉ!
カブミーティングに参加するとのことで、
会場まで一緒に観音様巡りをすることに。

11:55、町田市小野路町の千手院さんに到着。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

12:35、町田市木曽西の覚圓坊さんへ到着。観音様カブミーティングの会場に着きました~。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

会場には48機の面白スーパーなカブ達が駐機していました。

カブ主の平均年齢は(笑)オイラぐらい。

会場には〝ヤマシタバックスコーヒー〟が開店しています。

(元画像:珍品堂通信より)
美味しいコーヒーの列に並ぶVer.34。

会場のカブ巡り。

しかしまぁ・・・度肝を抜く素敵なカブが山盛り満載、マニアックなカブ主の皆さんには脱帽でございます。

ミーティングでは、面白トークショー、多様な参加賞(景品)、手影絵体験、観音堂の由来の講和、写真撮影などがあり、とても楽しいイベントでした。

主催のかわしまゆみ様ほかイベントスタッフの皆さん、ありがとうございました。

(元画像:珍品堂通信より)

15:30、定刻通りに会場を後にします。
15:40、松屋桜美林学園店で遅い昼食。
16:30、ファミマ八王子バイパス店で休憩。
17:10、帰宅しました。

あ~、楽しかった!

追伸:ミーティングの模様はバイク雑誌に載るらしいです。

観音様ツーリング

4/1
武相卯年観音開扉めぐりカブミーティングが4/9に開催されますが、そのスタッフを務められている やまおじさん の呼びかけで、ミーティングの前に親睦を深めつつ観音様をカブで巡りましょう!ということになり、本日に観音様御開扉ツーリングが開催されることになりました!

朝一番にスカーレット号(HONDA CT125 ハンターカブ)にナビを装着して、8時過ぎに自宅を出発、途中で給油して、コンビニで朝食を買って、集合場所の道の駅 八王子・滝山に8時35分頃に到着しました。
集合時間は9時でしたが、予想以上に多くのカブ主が集まっていました。

ほぼ?(笑)予定通りに9時30分頃に出発。
やまおじさんの先導で13機のカブが八王子市内の桜並木を巡ってゆきます。

先頭がやまおじ機、次は私Ver.34機でした。

本日最初の観音様として、八王子市初沢町の高乗寺に到着。
思い思いのカブが並びます。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

11時20分頃、本日二番目の観音様として、松姫様で有名な八王子市台町の信松院に到着。

なかなかモダンで美しい寺院ですな。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

12時30分頃、昼食を町田市相原町のうどん屋開戸でいただきます。

席が空くまで暫く待ちます。

僕のうどんが来ました。美味しい!
あっ天ぷら食べちゃった後の写真です。

14時頃、本日三番目の観音様として、町田市相原町の清水寺に到着。

龍の彫り物が超絶に見事でした。
これを彫れる職人はもういないでしょう。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

14時35分頃、下柚木のセブンで休憩。

喉が渇いていたところでした!

15時頃、本日四番目の観音様として、八王子市下柚木の永林寺に到着。ここは高月城や滝山城で有名な多摩の太守であった大石定久公の支城であった柚木城跡に造営されたお寺とのことで、鎌倉と見紛う程に趣のある立派なお寺でした。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

歩くVer.34。(元画像:珍品堂通信より)

門前で集合写真。(元画像:珍品堂通信より)

ここで本日の観音様ツーリングは散会となりました。
参加の皆さん、一緒に走っていただきまして、ありがとうございました。

で(笑)、二次会って感じで、やまおじさんの先導で、ゼロさん・私Ver.34の3機で、15時45分頃に本日五番目の観音様として、八王子市越野の玉泉寺に到着しました。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

・・・ここで、私Ver.34は、副業による慢性的な睡眠不足の影響で(カッコワル~)、睡魔でスイマセンな状況となり、体内カラータイマーがピーコピーコ鳴り出しました・・・。
疲れが顔に出ていたと思います・・・Ver.34はこれにて帰還することにしました。
_(_^_)_

やまおじさん、本日のツーリングの呼びかけや先導、ありがとうございました。
クロスカブのコーディネートは最高でした。

ゼロさんの、しれっとチューンドカブは興味深かったです!

16時45分頃に無事帰宅しました。
とても楽しいアットホームなツーリングでした。

給湯器 壊れた(T・T)

12日の深夜に給湯器が壊れた・・・。
SLの如く黒煙を吐いて・・・・・・。
(火事で通報されかねないレベル)
思えば予兆がない訳でもなかったけど、
この季節に突然壊れると困ってしまう。
お湯も出ないし、お風呂にも入れない。
工務店経由で設備の業者に連絡すると、
古い機種なので修理は出来ないらしい。
(火を使うし無理な修理は危険か)

排気口は煤で真っ黒になっていました。

思えば20年間も頑張ってくれました。
温かいお風呂や食器洗いや手洗いも、
給湯機があってこそなんですよね。
壊れて初めてその有難さが実感できる。
_(_^_)_

後継モデルを注文しようと思ったら、
半導体の関係で入荷日が未定・・・、
一週間後も入るかわからないとのこと。
まじか・・・だよな・・・どうしよう。
石油給湯器CHOFU系は諦めました。
(燃料コストは灯油の方が安い・・・)

ガス給湯器のNORITZなら在庫有、
とのことで20号給湯タイプを選んで、
翌日の午後に交換していただきました。
( 原付1台買える値段(´;ω;`)ウゥゥ )

しか~し、お風呂ってありがたいねぇ~。
夜と深夜の二回入って、満喫しましたよ。

いい湯だな~♡
お値段以上 湯とり
(⋈◍>◡<◍)。✧♡

鶴岡八幡宮 参拝

1月5日の6時過ぎに家を出て、6時21分発の電車に乗り、JR青梅線→JR南武線→JR横須賀線と乗り継いで、鎌倉駅に8時21分に到着し、駅前を真っ直ぐ通過して参道を歩いて8時35分に鶴岡八幡宮に到着。
ドア to 境内まで2時間30分、電車は渋滞も関係なく、なかなか早いものですね。
三元日と休み明けの間の早朝は、電車も神社も空いていて、密を避けられ待ち時間のロスもなく。

大石段を登り、本宮(上宮)で参拝し、丸山稲荷社で参拝し、お札をいただき、おみくじを引いて(小吉)、三の鳥居の甘酒(サントリーじゃん( ´艸`))で暖を取った後、豊島屋さんの『鳩サブレー』を買って、お昼前に帰宅するのがいつものパターンです。

来年は、混雑の真っただ中で、年越しをしてみたいものですよね。

歳だし一晩中外で過ごすのは厳しそうだし・・・鎌倉界隈で一泊しないとダメだろうなぁ・・・それもいいかもね!

宮寺氏館跡

12/10

朝イチで母の住まいに向かい、母の車(ワゴンR)を預かって、入間市寺竹のミツミタイヤさんで、ホイル込みでスタッドレスタイヤに交換してもらいました。

165/55 R15 を、

155/65 R14 へ インチダウン。
BLIZZAK VRX2 にしときました。

せっかく入間に来たんだし(笑)、さて、近くに城跡はないかなぁと検索。
なぬ?・・・宮寺氏館跡ですと・・・。
よし、ちょっと行ってみようか!

10:40頃、着いた。
お寺さんをひと回りして駐車場所を探す。
法事をやってるっぽかったので、公園前にちょい置かせていただきました。

宮寺氏館跡(入間市宮寺)

現在は西勝院というお寺さんで、宮寺氏の菩提寺とのことです。

入間市HPより宮寺氏館跡実測図を転載。

入間市HPより宮寺氏館跡解説文を転載
市指定文化財(史跡・昭和59年7月25日)
 宮寺氏は、武蔵七党のひとつ村山党(平姓)の武士で、村山頼家の二男家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって居館を構え、宮寺氏を称したとされる。その後、鎌倉幕府滅亡時には加納下野守(しもつけのかみ)が、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたといわれ、現在は西勝院(さいしょういん)の境内地となっている。
 外郭約130m四方で、内郭の堀跡・土塁の一部が残存している。土塁の外側に沿って、狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていた。周辺には「城ノ腰(しろのこし)」・「城東(しろひがし)」・「的場(まとば)」・「的場後(まとばうしろ)」という小字があり、館に関係のある地名と考えられる。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が出土している。

とのことで、この館の主は、
宮寺氏(平安末・1100年代末)
加納下野守(~鎌倉末・1330年代)
〇〇氏(南北朝・1330年代~)
〇〇氏(~戦国時代・1500年代末)
〇〇氏(~安土桃山・1600年代初頭)
狩尾氏(江戸時代~・1600年代初頭)
伊濃氏(~江戸時代・1600年代初頭)
の居館であったということかな?
範囲は4~500年の期間ですから、数え切れない人達が関わっていて、想像すると気が遠くなりますが、館を巡る人生の攻防は興味深いです。

館の主の移り変わりを7行で書いたけど、数十年の人生でもいろいろあるのに、数百年でこれっぽっちの記録など、何もわかっていないのと同じで、記録に残っていない人々の営みの痕跡が、土で成る城に残っているように思います。

本堂前にてお参りさせていただいた後に、遺構の中央土塁を見学します・・・凄い。
今はなだらかになっていても、無言の存在感がある。
往時の土塁はもっと高く、空堀は深く、険しかったものと推察いたします。

現地解説板より

館南西部の半壊した土塁も残っています。

館西側の水堀は、現在の水路とのことで、往時は水堀内側(右側)に土塁があったと考えられているようです。

館跡北東部の別の案内板より
史跡宮寺館跡
 桓武天皇九代の孫 平頼任は、今からおよそ九百年前、村山に住んで武蔵七党の一つである村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心にひろがって大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府の成立に大きな力となったことは、広く知られているところである。
 村山(平)頼任の子 頼家に四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名のり、三男家範は入間市の金子に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして、二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称して、この地に居館を構えたのである。
 源頼朝、同義経の家来で、源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が、当時の史書に見えるから、十郎家忠らとともに活躍したのであろう。
 すでに八百年以上も昔のことであるから、この居館跡の全体の姿を知ることはむずかしいが、西勝院境内の東部に残る長さ約三十メートル、高さ約二メートルの土塁と空堀は明らかに当時の遺構の一部で、さらにその土塁のつづきは、昭和二十七年ころまで、北隣の荻野家の屋敷の北側約百二十メートルにわたってのこっていたのである。
 元弘三年(西暦一三三三)に鎌倉幕府が滅びたころには、加納下野守なるものがここにいたと伝えられ、江戸時代から狩尾氏、のちに伊濃氏(猪尾、井野尾、伊野尾とも書いた)がいたが、この間のくわしい事情はよくわからない。
 以上宮寺館跡の概略を記して見学者の参考に資するものである。
  昭和五八年九月十九日
   入間市教育委員会
   宮寺郷土を知る会
   入間市文化財研究同好会

とのことです。
こりゃぁ・・・親と四兄弟の居城を巡るようだね(笑)。
こうして、偶然訪れた城跡から、広がってゆくんだよね!
僕の城跡好きは、小学生の頃に釣りの帰りに友人と迷い込んだ(笑)滝山城跡に始まります。その子ども時代の興奮が今も一緒なんだよね・・・進歩してないっす。
( ´艸`) 子供オジサンですから・・・。

13:50頃に帰宅。
自宅と母の住まいとの往復は、弦月号(Kawasaki KSR110)で、快走いたしました。
子供オジサンの愛機ですよ!
来週は、オイル交換と自賠責の更新です。

母の家の解体

10/22 10:14 小物の搬出など。

11/11 9:10 引っ越し。

11/21 12:18 最後の雄姿
今までありがとうございました。

11/22 7:33
カーポート、縁側、庭木や鉢がなくなる。

11/22 11:32
内部から分別して解体しているようです。

11/23 10:37
外部はあまり変わらず。ですが、

内部は内装や断熱材は既になく・・・。

11/24 12:02
建物横に仮囲い骨組みが設置され・・・。

11/26 8:00 重機で解体中。

11/27 7:44 上物は既になく。

残るのは1階床と基礎のみ・・・。

11/29 7:40
基礎がなくなり塀を残すのみ・・・。

11/30 7:41
塀もなくなり、整地と重機搬出を待つ。・

12/1 7:38
きれいに整地され、解体工事は完了です。
区画整理とはいえ、やはり寂しいですね。
中古住宅を僕と祖母の共有名義で購入し、
晩年の祖母、母親、弟、
クミ(メス犬)、ゴン(オス犬)が、
お世話になった家ですから・・・。
僕自身は住むことはなかったけど、
一時期は住所を置かせていただいたり、
僕の本籍地はここですし、
この家のおかげで、僕は自由に生きれた。
めぐり合いも含めて感謝しかありません。
ずっと覚えておこうと思って、
更地に戻る姿をとどめました。

この土地と出会った新しい利用者さんが、
有益に活用されることを心から願います。