スカーレット号のパンク

10/30
出勤しようとスカーレット号に跨ると、
???重いな・・・低いぞ・・・あれ?
降りて後輪を見ると、パンクしてるよ。
(;^_^A アセアセ・・・💦
オーマイガッ!忙しいこんな日に・・。
マジか・・・困った・・・弦月号だぁ!
で、爆音を響かせながらの出勤で~す。
職場では「まだ持ってたの?」だって。

久しぶりの弦月号での職場駐機場!
つうか農家の納屋かよ(笑)。
バイク屋さんに電話したけど通じない。
夕方も電話したけど通じない(休?)。
とりあえず緊急時用に買ってみたのが、
ネットでポチっと瞬間パンク修理剤。

スリーボンド、懐かしいね~。

ホムセンでも買っちゃいました。

次の日、バイク屋さんに連絡がつき、
前後のタイヤを交換することに。
(チューブ・リムテープ共に)
入荷までの一週間、現月号で通勤です。

バイク屋さん曰く、
瞬間パンク修理剤は後始末が大変だし、
今回は使わないでほしいですって。
だよね・・・(笑)。

パンクは災難だったけど、
自宅での発見は恵まれていたと思う。
出先だったら何倍も大変だった筈です。
備えよということで有難いことですね。

奥多摩~鳥居原へ散走🐾 オイル交換もね

10/28
8:15 家を出て、
8:55 7-11古里で朝食ゲット、
9:20 奥多摩湖畔に到着。

平日は目に入ってない雲と山並みと水面。
美しいですね~。

9:30 大麦代Pで小休止。
空いてます。
そこから小菅を経由して、上野原丹波山線を快走、上野原市内を若干?迷走(笑)の後、甲州街道を東進、相模湖畔を抜けて、ちょっと渋滞のR412をのんびりと、鳥屋川尻線に入ります。

11:55 地震峠に立ち寄りました。
関東大震災による山津波(土砂崩れ)で、埋没して亡くなった方の慰霊碑に参詣しました。
山が崩れて地形が変わり、人々や家屋を埋めて、川をせき止めた後に流れさえ変えてしまう自然の猛威の前には、今日もましてや当時の人々には成す術もなかったと思います。

鳥屋・地震峠の案内板です。

12:10 鳥居原Pで小休止。
先日の観音様ツーリングで御一緒したカブ主さんをお見かけしました。

宮ケ瀬湖を出て県道510号線の津久井湖との間ぐらいを走っていると、左側になにやらこんもりとした盛土と大きな木が茂っています・・・古墳かな?

一旦通り過ぎて戻ってきました。

塚のようです。

案内板によると

富士塚
津久井町根小屋富士塚1918番地
 この塚は土地の人は富士の森とも呼ぶ、新編相模国風土記稿に「首塚」として「寺領(功雲寺)南金原ニアリ、天正18年(1590)平岩主税(徳川軍の武将)津久井城ヲ攻落シ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ナリト云フ、塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽ユ」とある。
 天保6年(1835)3月八王子千人隊十人頭、塩野適斎が幕府の命により地誌編纂のため、この塚を訪れた時に「首塚」と題し作詞し筑井県紀行詩集に収められている、
 首塚何年何世人 言斯津久井城臣
(首塚はいづれの年いづれの世の人と
     言うこれ津久井城の臣なりと)
 只今唯有桜花発 寂々寥々不耐春
(只今ただ桜花のひらくあり
   せきせきりょうりょう春にたえず)
 塚上に浅間大神(明治23年9月建立、越後国、浜島勝)、富士浅間大神(明治23年寅6月1日開眼師、岩崎泰健、根古屋卿中)、妙法金人水神(年代不明)の三基の石仏がある。江戸期から明治にかけ富士山を神格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士講がつくられ江戸八百八講と呼ばれる程になったといわれ、富士山に登山できない者のために富士山をまねた富士塚が各地につくられた、この塚も浅間大神の石仏があることから古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士塚と呼ばれるようになったと考えられる。
 塚の面積約280平方米、昭和37年6月27日より大蔵省(財務省)の管理地となる。
 平成3年12月1日
         津久井町教育委員会

と、ありました。
句点やカタカナが当時もので面白いね。

激動の時代だ・・・今の日本は平和だね。
その礎となった先人達に感謝いたします。
ただ生きているだけで凄いことなんだね。
時々はそんな想いに駆られることもある。

いつものバイク家さんで、1500キロ毎のオイル交換もしました。
今日も愛機スカーレット号は快調です。

誰かのZX-6R

9/23

14:55、青梅のカインズホームへ、
ゴム製のワッシャーを買いに行ったら、
駐機スペースにZX-6R?が・・・
めっちゃカッコイイ---!

もしもオイラが乗ったら、
30分経たないうちに腰痛になりそうな
ライディングポジションですが、
_| ̄|○
見ているだけで痺れますなぁ~。

子供の教育ローンが終わったら、
乗ってみてぇ~。
せめてそう思うことは、
大事っすよね~(笑)!

長渕の館跡

9/18
約束の時間まで少し間があったので、

12:10、青梅市長渕にある三田氏の館跡といわれる場所に行ってみました。

三田氏は戦国時代まで青梅一帯を支配していた名族で、青梅の各地に城跡が残っており、その一つがこの館跡です。

名族の末裔なのか、地域の名士として名を残しておられるようですね。

前を通りましたら、古い墓石に三田氏の名が見えました。
むろん私有地につき立入不可ですよ!

多摩川沿いの北斜面は、左が多摩川、右が館跡の立地で、更に右に行くと丘陵が続き、館跡の西側には沢が流れ、戦国時代に地域を支配する館を構えるには適地なのではと思えました。

約束の時間が来たので、三田氏の館跡を後にします。

羽村某所のコンビニにて、暑すぎて日陰で小休止。

スカーレット号で散走

9/17

11:45、いつもの散走🐾で奥多摩湖畔へ。
バイク日和のいい天気だぁ~。

これまたいつもの アメリカンドック 。
大麦代Pに寄ったら絶対食べる定番です。
(何でアメリカンドックというのだろう)
嗚呼、大盛り焼そばも懐かしいんだけど。

12:55、帰路に へそまん を買ってみる。
一応、奥方様への お土産 です。
(*´σー`)エヘヘ

ハンター&KSR オイル交換

スカーレット号(CT125 ハンターカブ)と、
弦月号(KSR110) の、
オイル交換をしてきました。

スカーレット号は

1500km毎のサイクルで(前回4月)

弦月号は

あまり走ってないけど8カ月経過にての

オイル交換です。

ともに、まだまだいけるオイルでしたが
お願いしますと交換してもらいました。

すいません、雑記帳なもんで、
自分で後で確認する目的もあり、
つまらないネタでゴメン。
_(_^_)_

日奉氏館跡(日野市栄町・新町)

6/10
 昭島市中神町の立河氏館跡を出た後、15:00頃にマップに表記されている日野市栄町の日奉氏館跡に行ってみた。

 北辺に多摩川や谷地川が流れていていますが、平時の館としてはともかく、砦(城)としては・・・防御上はどうなんだろうなぁ~・・・本当かな・・・?

 東光寺成就院本堂・薬師堂さんにお参りいたします。

 おっ武田菱 人は石垣 人は城~♪

 案内板によると

 ということは、地図左側のT字路付近にもともとの薬師堂はあって、現在地に移築されたのでしょうか?

 鬼門の方角は北東なので、薬師堂が鬼門除けならば、館(城)は堂の南西の方角にあるのでは・・・?だとするなら上記地図の館の位置は違うのでは・・・どうなのかなぁ~?

 時間もないし、後日に再度訪れたいと思います。

 帰る途中、近くの七ツ塚古墳に寄ってみました。

 古墳が公園になっていて、小さな子供達が楽しそうに疾駆していました!
 これって、考古学的にはともかく(笑)、最高の墓地の利用法だなと思いました。
 死んだ人だって、生命力溢れるちびっ子が、上を走り回っているほうが、絶対に楽しいに決まってる。
 お爺ちゃんお婆ちゃんのお墓の上で、ドタバタ孫が走り回ったり、シートを広げて美味しいお弁当を食べたりしている光景って、きっと最高だな。
 ( ´艸`)

で、後日の7/1。

 T字路の辺りに鬼門除けの薬師堂があったとするなら、その南西の方角に館跡はあったのではないかと思い、行ってみましたその辺りに。

 北に多摩川、北~西を囲って谷地川、鬼門除けに上記薬師堂、多摩川段丘上に位置し、更に鬼門除けに神明社・・・というと、館跡は現在の東光寺西公園を含む一帯なのではないか・・・と、想像してみました。

(余談ですが、すぐ近くで木造の住宅を設計・監理したことがあり、不思議な縁を感じました)。

 新旭橋より東光寺西公園方向を見る。

 いかにも・・・って感じでしょう!
 緑地帯は断崖となっております。

 断崖上に広がる畑地帯、左の杜は神明社、森の低くなった辺りが東光寺西公園で、いかにもって感じがしますねぇ~。
 辺り一帯は残念ながら(城跡好きとしては)区画整理で街区が昔とは異なっていますが、新しい擁壁部分はともかく概ねの地盤のボリュームは引き継いでいる筈。

 案内板によると、でしょでしょ~。主要な道路が通ている断崖上の選地がポイントだと思う(個人的に)。

 神明社さんにお参りいたします。

 案内板によると

で終わるかと思いきや、

まだ候補地があるらしい・・・。

 谷地川が多摩川に合流する辺り・・・、日野宮神社の南側一帯説。

上記写真右側の現地案内板より

 ②の室町時代の刀はポイント高いのかな。

 日野市の名前の由来ともいわれる日野宮神社の一帯が、日奉氏の館跡という説がありますが、僕は日奉氏の平時の政庁の館が上記古地図の街道筋&渡河地点に近いこの辺りで、非常(戦闘)時の砦(城)が東光寺西公園一帯付近なのではないかと個人的には妄想しています(ざけんな~とか言わないでね・・・笑)。

 歴史学や郷土史の偉い先生方が研究されてもなかなか答えは導かれず、調べれば調べる程に謎の一端が解明されて更に謎が増える(笑)状況もあるのではと想像しますが、今後の解明に期待したいですし、僕も素人向けの文献を入手して謎を楽しみたいですね。

 『鎌倉殿の13人』の北条義時さんがよく出てきます(立河氏館跡でも)。
 日奉氏は立河氏を輩出した武蔵七党の西党の武士で、多くの地域豪族を輩出した名家とのことですが、多摩地域の小さな城跡を巡っていると、必ず武蔵七党、和田義盛の乱の加担や北条義時の粛清の話が出てきて、戦国時代以前に平安~鎌倉~室町時代に話が及びますね・・・というか、この辺りを学ばないと、小さな城跡は語れないというか。

 これも余談ですが、上記案内板文字の北条氏照さんは、戦国時代の関東に多くの影響を与えた武将さんですが、鎌倉幕府の北条氏とは別系統っていうのも有名な話ですが、関東を治めるには北条ブランドって大きかったんだろうなぁ~と思いました。
(北条早雲の本をただいま読んでるとこ)

 兵どもが夢の跡・・・小さな城跡って面白いですね。