岡城跡(朝霞城跡)

朝霞に所用で赴いた後、少し時間が出来たので、ちょっと足を延ばして岡城跡(朝霞市岡三丁目)に寄ってみました。

黒目川沿いの城山公園の駐車場(30台程)に車を駐車させてもらいます。

僕の大好きな小さな城山(丘)ですので、まずは城跡の周りを一周することに。

城跡東側の黒目川沿いより城跡を望む。

城跡北側の黒目川沿いより城跡を望む。手前は城山公園の駐車場です。

城跡北西側(写真上側)をぶち抜く道路向かいの広場にあった案内図ですが、色褪せしてよく見えません。

城跡西側より城跡を望む。城山公園へのアプローチ階段が整備されています。

階段左側の案内板が、小さな城山の全容を楽しく案内しています。

トイレの外壁のイメージ図が、当時の城山を想起させます。

岡城跡外周を一周して、北側の黒目川方面から登城開始。

小さいんで、あれっ・・・という間に一の郭に着きました。

( ´艸`)

ま、当時はこういうルートはなかったでしょう。

普通は、四の郭、三の郭と段階的に入る訳で・・・、ワープしちゃったようなもんですね。ショートカットというか、ズルというか。

知らなかったんです、許してください、

城主さま<(_ _)>。

一の郭は、雑木がたくさん生い茂ってて、

眺望はあまり利きませんが、当時は渡河ポイントを押さえた要衝だったのではと想像します。

一の郭から二の郭へ。

逆ルートの登城ですが(笑)。

いや違う・・・。

ワシは一の郭から二の郭へ降りたのじゃ。

皆の者、頭が高い、控えおろ~。

で、余談はともかく、

左の二の郭より、右の一の郭のほうが高いことがわかります。

500年の時の流れで、間の空堀は緩く浅くなっちゃってますが。

戦国時代の岡城は、城山公園となって、園児たちの憩いの場所になっています。

城跡としては幸せなんじゃないかな~と、ふと思いました。この場所で、こんなに明るく小さな輝く未来ある命が躍動しているんですもの。戦いで散っていった城兵さん達も癒されているんじゃなかろうかと思いました。

左の三の郭 と 右の二の郭の間の空堀。

遊歩道が整備されています。

振り返って樹々の間の木漏れ日を見上げる。

ある意味もっとも城跡っぽい光景。

ふと一礼したくなりました。_(_^_)_

すると背筋にゾクゾクゾクと・・・。

んーなんだろ・・・不思議な感じですね。

岡城跡(朝霞城跡)を後にします。

500年前の戦国時代。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、

人びとの生きる希望はどうだったのか。

一年後、数か月後、いや明日をも知れぬ我が命、我が家族、我が仕事。

現在の日本の不景気、倒産、リストラ、その他もろもろの現代人の悩みを、戦国時代に生きる人々が見たとするなら、なんて平和で幸せなんだと思うだろうか。

もののふ達の魂を、息吹を、感じたいし学びたいですね。

生きることとは、戦いだ。

であるなら、戦いとはなんなのか。

帰宅後、画像をみて少しびっくり。

青く光る球体が写っています。

やはり・・・といった感じです。

なにかはわかりませんが、

もののふ達の魂を、

ほんの少しだけ感じた気がします。

小田原城跡 石垣山一夜城跡

1/19 11:00頃、小田原城跡に立ち寄る。

開門じゃ~。でっけぇ門じゃのぉ~。

立派な天守じゃ。超高層じゃのぉ~。

もっともワシは白い部分じゃなく、石垣の部分が好きなのじゃが。

城とは 土で成る のであって、土の表面を石の装甲で固めたような石垣の曲輪こそが、ここの城なのじゃよ。

天守からの眺めは良い。

城主が北条さんの五代目の頃、豊臣秀吉さんの軍勢に囲まれたときは、凄い眺めだったでしょうね。東西南北、陸も海も山も川も全て囲まれ、小田原の支城が落とされても救援にさえ行けない。しかし、上杉謙信さんや武田信玄さんの軍勢を寄せ付けなかった難攻不落の小田原城は、桁違いの規模の豊臣秀吉さんの軍勢をしても、力攻めをさせませんでした。すごい城だ。

当時の城主さんは、このような 小顔 の イケメン だったことでしょう。

まったくもって奇跡の9頭身です。はい。

本丸の松が立派じゃ。

マツにおまかせください・・・、それは加賀百万石の菜々子さんじゃったのぉ。

四百年も時の流れを見て来たんだね。たいしたもんだ。

秀吉さんは、小田原城の西方の笠懸山の山頂に密かに城を築き、完成と同時に周りの木を伐採し、北条側に一夜にして城を築いたように見せかけて、戦意を喪失させ、石垣山一夜城と呼ばれた城を80日の突貫工事で城を完成させたのは、想像もできないね、凄すぎて。 関東で最初の総石垣の城だったそうです(今の小田原城は徳川時代がベースです)。縄張り(設計)は黒田如水さんだったとの説があるそうです。

北条さんは小田原城を開城し、小田原城の北条さん五代の歴史に幕が下りてしまいました。歴史は勝者がつくるとも言われていますので、小田原評定などと北条さん側にとってはネガティブに語られることも多かったと思いますが、全盛期の北条さんは関東の雄であり、政治や経済、軍事や農政などでは、類い稀な統治をされてきたと思われ、研究者により見直されつつあると読み聞こえてきます。

天守から石垣山一夜城付近が見えます。戦闘時に高層の天守からでさえ見上げるような近くの山上に、関東には無い総石垣の〝あんなもん〟見せられたら、もう無理だと思っちゃうよね。

五代目の北条氏直さんは自身の切腹を願い出て全ての城兵の赦免を願い出る(今時こんなリーダーいないね)も切腹は見送られ(徳川家康の娘婿だし)、代わりに四代目の北条氏政さん、その弟の北条氏照さん(八王子城や滝山城の城主)などが切腹を命じられたとのこと。

北条氏直さんは高野山に蟄居を命じられ、翌年2月には許されて1万石が与えられたけど、その年の11月に亡くなってしまったとのこと。その後の北条氏の主流は、なんと河内・狭山藩の小名として豊臣~徳川時代に続いたそうです。知らなかったよ。関東の北条さんの家臣は、その後を領した徳川家康さんの配下になって、再就職できた武将も多かったでしょうね。

さてさて、小田原城の戦意を喪失させた石垣山一夜城に行ってみます。案内板が多くて迷う事なし。駐車場やトイレや売店も整備され快適に見学ができます。もっとも石垣山一夜城跡については、歩道以外はあまり整備されておらず、石垣も荒れ放題のまま手つかずで、城跡ファンとしては逆に貴重な遺構でもあります。

時間の都合であまり滞在できませんでしたが、山上に築いた総石垣の巨大な井戸は見事でした。さすが天下人の城なんだなぁ~と感慨深いものがありました。

秀吉、恐るべし。この城を80日の突貫工事でね。今でいうと孫正義さんかな・・・。不世出の天才というものは。それとブレーンも凄いね。

僕なりにとても有意義で、間接的に学びがあり、感じるものがあり、よい城跡探訪になりました。

ふらり 忍城界隈 散策

忍城界隈を散策してみたいなぁと。

なら、じゃぁ行ってみようぜと!

11/24 10:15頃、忍城本丸跡に到着。

ここが、のぼう様で有名な忍城なのね。

今は市街化され、堀は埋められてしまい、

威容を誇った昔の忍城の面影はないが、

一部に残った土塁や石垣の痕跡が残る。

幕末~明治の激動の時代が伝わるようだ。

近いうち、時間をつくって、

上記の数字の通りに、昔と現在の街を、

折りたたみ自転車で散走してみたいです。

郷土博物館に入ってみる。

往時の忍城のジオラマが素晴らしい。

本殿の模型も、見る価値があります。

お腹が空きました。

うどん大地 行田 で昼食。

こしがある美味しいうどんでした。

地元の地酒の横田酒造に行ったけど、

残念ながら休みで、近くに酒屋もなく、

地元の地酒を買えず・・・又の機会に。

水堀跡の水城公園を歩いてみる。

釣り人に並んで立っている鷺がかわいい。

(野生の魚ハンターで実はこっちが本職)

石田三成の水攻めに耐えた忍城ですが、

三成の陣跡の丸墓山古墳に行ってみよう。

丸墓山古墳を北方から見る。

今いる場所が三成の築いた堤防跡らしい。

小田原攻めの一環で、よくもまぁ来たね。

日本最大の円墳は、陣地には最適でした。

古墳時代と戦国時代のハイブリッド史跡。

丸墓山古墳は、さきたま古墳群の一部で、

埼玉県の県名の由来との、

さきたま の史跡を、散策してみます。

なんといっても国宝の、

金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が、

1500年の時空を超え、目の前にある。

刀の刻印の漢字が今もはっきり読める!

これは凄い!ふらっと散策は楽しいね!

おみやげに、埼玉仕様のコーラを。

「そのへんの草」が入ってないと・・・。

(翔んで埼玉より・・・( ´艸`))

大昔の埼玉は、なかなか凄そうな感じ。

忍城跡 も さきたま古墳群も、

ちゃんと見るには、各一日は必要だね。

15:30、帰途につきます。

また来るよ。

のぼうの城を読んで(観て)からね!

十割蕎麦 谷戸城跡 大冠

8/25

近頃は日本酒にはまっています。

そんなわけで、たまにはウィスキーの里にでも行ってみようと(笑)、サントリーの白州蒸溜所にダメもとで予約なしで行ってみたが、今のシーズンは予約なしではやっぱりダメでした(笑)。ほほ~、ハプニ~ング、いいね!

で、お腹もすいたし、どっかないかなと見渡すと、お蕎麦屋さんの看板が!よし、行ってみよ~!

12:00少し前頃、到着。

十割蕎麦と天ぷらのセットを注文、前金です。美味しい。写真撮るの忘れた~。

店内に写真パネルがあって、なんと道向かいは武田四天王の馬場信春のゆかりの地であるらしい。

馬場信春の旧名は、教来石(きょうらいし)景政とのことで、通称は民部少輔→美濃守→鬼美濃となったようです。馬場といったら美濃守って感じですよね。武田の騎馬軍団で最強ってイメージです。

馬場信治(教来石民部)さんの館(鳥原屋敷)跡とのことです。

残念ながら、遺跡調査中のようで立入禁止になっていました。わくわくするね。

近場で何処か城跡はないかなと検索すると、たくさん出てきたので、そのうちのひとつ、谷戸城跡(山梨県北杜市大泉町谷戸)へ行ってみることに。

13:00頃に到着・・・暑い~。

城跡南麓の駐車場(上記の現在地)から搦め手虎口に向って歩きます。南を見渡すと田園風景が美しいです。この地域一帯が城跡です。

六の郭の東を抜けて、北西の大手虎口側から西帯郭→帯郭→二の郭から、

兵どもが夢の跡、谷戸城一の郭です。城兵は何処へ・・・。

パワーをもらいましょう。そんな気になります。生きるって大変だ。

城跡北西にある北杜市考古資料館に立ち寄ります。

城跡の全容がよくわかりますね。

資料館の楽しみのひとつに入手できる城跡の資料があります。「谷戸城跡」「北杜の戦国時代」「棒道の本」の三冊を入手(有料)しました。読むのが楽しみです。

谷戸城跡を後にして、近場の酒蔵を探すも・・・日曜はお休みばかりで・・・小さな酒屋も・・・というか普通のお店自体もなくて・・・山梨というか北杜というか、更に夜はいい感じでしょうね。であるなら、出来ることなら、隠れ家が欲しいところです。

仕方なく、帰路に寄った 道の駅しらね で、地酒の大冠の吟醸系は売り切れなので本醸造の四合瓶を買いました。飲むのが楽しみですね。どうかな。キレイに売れ残ってたけど(笑)。

行き当たりばったりも、臨機応変が楽しいもんだよ。

弦月号 奥多摩・雁坂・秩父 周回

9:30、Kawasaki KSR110 弦月号を駆って出撃。9:40に小作坂下のGSで給油、レギュラー5.20L ¥692也。道は一部の交差点を除いてそれほど混んではいませんが、ノロノロフラフラ走る車が多くて、なかなかスイスイとはいきません。挙動不審な落ち葉舞うような運転は、見ていて怖いです。

10:35、奥多摩湖畔は久しぶりかな。湧き立つ雲、遠くの山々、静かな湖面が美しい。

大麦代駐車場でアメリカンドックを買った際、お店のおじちゃんに「ヤキソバやってないの~大盛りの?」と訊いたら、「もうずいぶん前に辞めたよォ~隣の店ね」とのことで、寂しいけど仕方ないね。じゃ、〝おじちゃんやってよ~〟などと思ったけどさ。なかなかね。とはいえ、若い人が面白い店やったら繁盛するんじゃないかな?

道端に停まっていると、ランボルギーニ・フェラーリ・ポルシェの団体さんが素晴らしい排気音を響かせながら通り過ぎる。どんな走りをするんだろう?どんな人が乗っているんだろう?スーパーカーにはロマンがあるねぇ。乗ってる人には子供たちの夢を壊さないでほしいねと切に。

11:00、赤いアーチが美しい峰谷橋。1957年竣工とのことで、当時は日本最長のアーチ橋だったらしいです。奥多摩路ではおなじみさんの橋。

11:10走っていて、ふと見上げると小さなお堂のような建物が・・・気になるので戻って寄ってみます。単独行動なんで気楽なところです(笑)。

湖底の村から移築した1865年竣工の農村の演劇の舞台建物だそうです。すごいな~。当時の奥多摩を見てみたいね。

11:40、走っていて、ふと見ると、なにやら案内板が・・・気になるので戻って寄ってみます。

古いお祭り、昔はすごかったのでしょうね。今とは比較にならぬほど、生きるだけで厳しかった時代、祭りの間は男も女もたくさん踊ったのでしょうね。

11:50、久々の柳沢峠、標高1472m。標高の影響で愛機のエンジンパワーが落ちてゆくのがよくわかります(笑)。仕方ないね、110ccだし。さすがに下界と比べるとかなり涼しいですね。

柳沢峠から、山梨方面を下ってゆく。拡幅されて経路や舗装も新たになった道を快適に疾駆してゆく。とても走りやすくなったけれど、どれだけ税金が投入されたのだろうかなどと考えてしまう。公共工事は必要で、国民を潤すものでもあるが、これからはそれらの造ったインフラの維持に向きあうことになるのかなと。

12:10、走っていて、ふと見上げると大きな丸い岩がパックリ割れている・・・気になるので戻って寄ってみます。石の下は番所(小さな関所)跡だった。

登ってゆくとありました。

やはり神様の宿る岩でしたか。岩の形状から、安産祈願とか子孫繁栄とか、ご利益がありそうな気がするなどと、勝手に妄想しています。何の神様なのでしょうか。

R411・大菩薩ラインを下りてくると・・・暑っついです・・・。新千野橋東詰を右折しフルーツラインを(途中で爆走軽トラにスレスレで抜かされ、やる気スイッチが入って追走することに・・・いけません)北上、R140・雁坂みちに入る。今度は標高が上がるにつれ涼しくなってゆくのがわかります。バイクのいいところだね。

スロットル全開、愛機 弦月号は青息吐息で雁坂みちの直線路を登る。ミラーに光るヘッドライトが彼方からぐんぐん近づいてくる。左に避けた僕達をドドドドドド~ッと圧倒的なパワー差で、左手を挙げて追い越してゆくハーレーダビッドソンのハンドルが高いチョッパータイプ。革のジャケットのヒラヒラも含めて、カッコヨカッタ~!

12:40、走っていて、ふと見上げるとなにやら門のようなものが・・・気になるので戻って寄ってみます。川浦口留番所(小さな関所)跡でした。

愛機をえっちらおっちら押してきて、

僕は怪しくないので通っていい?

今でいうところの国境のゲートなんですよね。甲斐の国とか、越後の国とか、相模の国とか、要はざっくりいうと県境が国境みたいなもんですもんね。旅行なんて一般的でない時代。男も女も老いも若きも朝から晩まで働きどうしで、それでも貧しくて子供を売ってようやっと生きるような厳しい時代。売られた子どもは・・・日本だって昔は貧しかった。食料の安定供給や公共事業で豊臣や徳川の時代に入ってから徐々になんとかなっていったのですよね。ということは100年後、今でいうところの労働をほとんどしなくても生きていける平和な時代がきたらいいね!なんて思いました。その頃にはもういないけどね・・・(笑)。

12:50、走っていて、ふと見るとなにやら軽便鉄道敷のようなものが・・・気になるので戻って寄ってみます。三塩軌道と称する軌道敷があったそうです。

全長36キロ、行きは下り坂をブレーキだけで塩山駅まで走っていたそうで、ここまで登ってきた坂を考えるとすごい急な下り坂だし、ショボイ車体とブレーキで、今じゃ考えられない恐ろしい乗り物じゃ。

NO~・・・乗りたくねぇ~。しかし運転手さん命懸けじゃな~。考えてみると昔の仕事は生活は、どこも命懸けだったよね・・・。ほんとご先祖様ありがとうございます。

道の駅 三富 にちょい寄る。

わおっ、久しぶりの雁坂トンネル。70円の通行料を払って突入します。前にも後ろにも車がいなくて、快適なトンネル走行でした。路面が濡れていて、愛機は水撥ねでびしょびしょに濡れましたが。

秩父に入って標高が下がるにつれ気温はぐんぐん上昇します。暑い~。お昼はなにを食べようかと道路沿いの飲食店を走りながら見るも、並んでるし。一人で来て並ぶのは嫌だしね。

14:00、結局、秩父野坂の すき家 で牛丼ミニ&サラダセットを食べました(笑)。水をちっとも出してくれない残念なサービスぶりでしたが・・・。

R299で秩父市街を抜け、正丸トンネル手前で青梅秩父線に入る。前走車数台に続いてのんびり山伏峠への登りを走っていると、後方から125ccクラスのフル装備のオフロードライダーが追い付いてきたのですが、後ろや横にベッタリついてきて目障りで煩いのなんの・・・そんなにくっつくなら命懸けで前の車を抜いてけっちゅ~の・・・なんて思っちゃいましたよ。怒りがMAXになる寸前、どこかの林道に消えてゆきました。遭難してしまえ・・・なんてね。特に一般車に対しては安全運転でよろしく。せっかくの楽しい家族旅行が台無しになるじゃん。

名栗を抜け、成木街道に入り、小沢トンネルを抜け、延命寺の先を右折し、松の木トンネルを抜け、北小曽木川を渡った突き当りのT字路に、以前自転車で来たときにもちょっと止まったけど、気になる五輪塔と檜の大木があります。

青梅市指定史跡の佐藤塚です。

佐藤助十郎さんはかつて北条家に仕えた落人でしたが、石灰事業を始めて成功した方らしい。佐藤さんは落人からよくぞ成りあがったものですね。その後に残念ながらお家は断絶してしまったそうなのですが、きっとご一族につながる方も今もどこかで暮らしていらっしゃるのではないかと。五輪塔には正保二年(1645)の年号があるそうです。名を残しましたな。素晴らしい。

15:30、帰宅しました。顔が日に焼けました。

明白院 山門

仕事の現場の近くに、日向和田の館(館)の城の城跡がある。もう何年も前に行ったきりですが、近くのお寺に家臣の屋敷の門が移築されているというので、現場からの帰りに寄ってみました。

車窓から探しながら、山門が視界に入ってきたときは、そこだけ時空が異なっているようで、お寺の山門としては小さな規模だと思いますが、その存在感はとても大きなものでした。

三田氏といえば、この地域の在地領主で、戦国時代に上杉謙信の側についたまま徹底抗戦し、ついには八王子の滝山城主となった北条氏照の軍勢に敗れ去ってしまったのですよね。

その遺臣の野口氏(松月良永・1629寂)がお寺さんの開基となったということで、三田氏⇒北条氏⇒豊臣氏⇒徳川氏と移り変わる激動の時代が伝わってくるようです。

山門は、館(楯)の城跡にあった田辺宇太夫屋敷の門を移築したとのことで、当時の貴重な古構を今に伝えているようです。

400年の長きにわたって人々の営みを見守ってきた山門です。柱や梁には時の風化が黒く年輪の皺となり、厳しくも優しくお寺を守りながら道行く人々を見ているようでした。

いつまでも大切に。

唐沢山城跡 相沢酒造 佐野城跡を巡る🚘

6/23 今日はクルマでの移動です。

10:40、栃木県佐野市の唐沢山城跡に到着。

越後から三国峠を越えて関東へ押し寄せる当時最強クラスの戦国大名、上杉謙信の軍勢に10回も攻められた城というのは凄い。

上杉と北条に挟まれて、佐野氏や領民は大変だったよね。

上杉謙信がやってきたといっても、遊びでなく、城攻めに来るわけで、唐沢山城の堅固さが際立ちます。

しかし城下の領民にとっては、家屋や田畑は灰塵に帰し、捕まれば拉致や生命の危険の憂き目にあい、それが毎年繰り返されたのですから・・・戦国時代とはそういう時代とはいえ、生きるのは厳しかっただろうな。

城は領民の避難所でもあったのでしょうね。

①の駐車場から入る。③の井戸は山城としては貴重だね。枯れたことがないそうです。しかし城が大きい。小さい山城が好きな僕には手に余る規模です。

④の四つ目堀を渡り、三の丸、二の丸を左に見上げながら、大手道を登ってゆきます。⑥の南城側から本丸に登ります。関東には珍しい戦国時代の高石垣が圧巻です。重機もない時代に人力・牛力・馬力で・・・頭が下がります。

本丸から大手道や二の丸を見下ろす。荒々しい石垣が美しい。

本丸から南方を見る。晴れていれば江戸(東京)が望めるそうです。

まさに唐沢山城は要害ですね。凄い城だ。いろいろな由来やら伝承やらがあるので、興味のある方は是非どうぞ。上杉謙信が10回も攻めあぐねた名城です。

唐沢山神社の社務所で、『戦国 唐沢山城 武士たちの夢の跡(著者:出井博)』という本を買いました。読むのが楽しみです。

12:10、佐野ラーメンが食べたくて、佐野市堀米町の らーめん文 さんへ。

チャーシューメンをいただきました。手打ちの腰のある縮れ麺と柔らかいチャーシューとスープがとても美味しかったです。お店は混んでいて活気があり繁盛していました。

13:10、佐野市堀米町の相沢酒造さんへ。

休業日の札が出ていましたが、店の戸が開いていて、声を掛けてみたら蔵元さんが出てこられて、愛乃澤 純米吟醸 純 720㎖ を買うことができました。飲むのが楽しみです。

13:40、佐野市若松町にある佐野城跡へ。

わずか十数年で佐野氏は改易、城も廃城とは、厳しい時代ですね。

元々、古墳があって、佐野厄除け大師の惣宗寺があった場所だそうです。

二の丸や本丸西側の土塁、本丸と二の丸や北出丸の間の空堀が見所です。

改易された佐野氏は幕府旗本として代々続いたそうです。廃城後の城下町のその後の発展や領民の暮らしを知りたいのですが、又の機会にしたいと思います。

今井城跡 五十嵐酒造 大河原城跡を巡る散走

6/2

9:24 に家を出る。天気は曇り。陽射しは強くなく助かる~。

先日登城した青梅 藤橋の藤橋城跡の望遠を撮る為、藤橋城跡北側の霞川沿いへ寄り道します。

撮影の後(藤橋城跡の記事に追加しました)、僕が19歳から数年間住んでいた懐かしい青梅市今井の住宅街(人手に渡った元我が家は今も健在でした!お久しぶりね~😢)を抜けていきます。

そこからスイスイと東に走って、10:08 青梅 今井の今井城跡へ。

空堀がいい感じですね。往時はより高く深く急斜面だったことでしょう。

登城しました、

主郭は除草され開けていますが、樹木が生い茂り眺望はききません。

朽ちたお社がありました。

今井城跡を南側から望遠します。

小さいお城ですが、往時は地域にとって大切なお城だったことでしょう。歴史に埋もれた庶民の暮らしに、在地の今井氏の栄枯盛衰に想いを馳せます。

今井城跡を後にして、八高線沿いを北上します。金子から入間川への下り坂がとても気持ちいいです。落下物や路面コンディションには注意しましょう。気を抜かずにね!

10:47 飯能 市川寺の五十嵐酒造に到着。

おいしそうなお酒がたくさん並んでいて迷うけど、ベーシックなものを。天覧山 本醸造 の 四合瓶を購入。それと『天覧山』のロゴが入ったぐい吞みもひとつ!飲むのが楽しみだなぁ。

近くの城跡を検索すると、大河原城跡がヒットしました。向かうことにします。

なんか素敵な建物だね。お店かな。いい感じ。

三角屋根の連棟がいいね。軒先に樋がなくてシャープ。きっと二階はお洒落だぞ・・・と想像してみる。

入間川沿いを走ってきたつもりが、徐々に川から離れてる感じで・・・道は広く長い登り坂になってエッチラオッチラ・・・???、停まって位置を確認すると、なにここ・・・間違ってるし(笑)。

せっかく登ってきたんだから、そのまま登って飯能市クリーンセンター前の大きな十字路を右折北上・・・ふ~。

サインアーテックという会社の前で除草ヤギさん発見。かわいい。呼んだらすぐ脇まで来るし!除草ヤギを放つとは、なんていい会社なんだ。斜面の除草はヤギさんがいい。癒されます。ありがとう。会社の最強の広報係なんじゃないかな。道を間違えなかったら出会えなかったよ。

名残り惜しくもヤギさんとお別れして出発!

シューっと下り坂を疾駆します。いやはや気持ちいい。坂道を登った甲斐があるよ。分岐路にお地蔵さんが!ここを右だ!導かれました。ありがとうございます。

お、あの山の辺りだな・・・、

11:52 飯能 大河原 の大河原城跡を望む。

牛乳屋さんの店員さんに城跡の登り口を訊くと、すぐそこの会館のところから登れますよと教えていただきました。ありがとうございます。早速会館へ!

案内板によると

八耳堂

軍茶利神社

大河原城 館跡地

登山道を登ります。たぶん登山道で、登城路ではないとは思うけど。

龍崖山山頂の大河原城跡の主郭に登城しました。軽登山の大先輩の団体さんが15人ぐらいいて、賑やかでしたよ~。

主郭南側の堀切

有志により程よく手入れをされたよい山城ですね。現在は軽登山を楽しむ方々の憩いの山として、愛されている城跡でした。城跡ということを知らない方々も多いことでしょう。街も建物も城跡も、人の活気って大切ですね。下山にて先程の大先輩の団体さんに追いついたら、「急行さんが来たから譲って~」と号令をかけてくれ、道を空けてくださいました。ありがとうございます。山っていいね。

大河原城跡を後にして、飯能市街に向かいます。吾妻渓が美しい。バーベキューが楽しそう!

途中、飯能市博物館に寄って、大河原城跡の資料を入手する。

飯能市街に立つ美しい銅像の前で呼び止められる・・・美しい。瀬音というタイトルで制作者として T.SATO の刻印がありました。女性の銅像ではあまり停まらないのだけれど、美しさに停まっちゃいましたよ。いい作品だね。

13:40 東飯能駅に到着。愛機を折りたたんで輪行バックに収納します。

西武線の特急電車が通過したけど、銀色のニョロニョロみたいな妙なデザインだった(笑)。なにあれ。ん~時代か・・・。

14:06発のJR八高線 八王子行きに乗ります。

14:24 東福生駅で電車を降りる。

愛機を輪行バックから展開して、走り出します。

14:48 帰宅しました。この頃は毎晩の日本酒効果?なのか(笑)体調もいいし、毎日漕いでる成果も若干あるのか?上り坂も下り坂も楽しいね。

少し蒸したけど、曇り空で陽射しが優しくて身体的には助かりました。

34㌔ほど走りました。

乗機は、小さい銀河号 (BS スニーカーライト SNL163)でした。

また走ろう!

藤橋城跡 長澤酒造 田波目城跡 毛呂氏館跡 高取城跡を巡る散走

5/18

酒蔵に行こう。城跡に行こう。

埼玉方面だね。

9:42に自宅を出発。

走りながら沿線気になるウォッチング。

折りたたみ自転車の楽しみのひとつです。

なかなか、とんがってる家だね~。

シンプルなファサードと植栽が美しいね。

10:25頃、青梅 藤橋の藤橋城跡に到着。

登城しました。城跡内の案内板によると、

土塁が残る。城とは土で成るものなり。

北方の眼下を見下ろす。

沸々と血が沸き立つような気が・・・。

戦国時代に想いを馳せる。

小さい城だけれど、立派なものだね。

北方の霞川沿いから藤橋城跡を望遠する(6/2写真追加)。

城を後にする。岩蔵街道を北に向かう。

下り坂を調子よく走っていたら、後ろから徐々に並走してきた乗用車に幅寄せされ端に追いやられたら目の前に陥没穴が迫る!・・・ギリギリ回避、頭に血が上る!!!抗議しようと力走するも追いつけず・・・腹立つ~、危なかったです。走りながら心を静めます。冷静に冷静に。追いつかなくて良かったんだよ。その日一日台無しになるところだったかも。まだまだじゃのぉ僕も・・・。

広い通りを素直に進むだけでなく、気になる裏道に入ってみたり、普通ではまず通らないような縁もゆかりもない初めて通る細道も、僕の自転車の楽しみのひとつですね。

岩井堂橋から成木川の渓谷を見る。

西武池袋線の飯能駅を過ぎた辺り、いい感じの建物が。2013年に70年の歴史があった工場が移転し、2016年にクリエイターの集まるシェアアトリエとしてリノベーションされたとのことです。

思わず笑みがこぼれた可愛い家。

11:25頃、7-11飯能駅北口店で、缶コーヒー・コッペパン玉子・ツナマヨ手巻寿司を買って休憩。納豆巻きが売れ残ってるね・・・ツナマヨ増やして(笑)!

11:40頃、北に向かう。

八高通りの中居の交差点。いい感じのお寺が見えてきたので寄ってみよう。

曹洞宗の宝蔵寺というお寺さんで、綺麗な本堂だね。お寺の裏山の第二天覧山が気になる・・・。

北側の採光と換気を考えてる居宅兼工場。

上の写真の建物と続いている工場のこれぞハイサイド採光。

かかし効果(笑)?

飯能寄居線を北に進みます。

トーベ・ヤンソンに敬意を表して。

東飯能~高麗川駅間にある八高線事故慰霊碑。事故は1947.2.25 7:50 に起きた。カーブを曲がり切れなかった客車三両が脱線転覆。死者184人・重軽傷者570人という日本鉄道史上で最大規模の惨事だったとのことです。手を合わせました。

高麗川の四季の菓子工房シャロンという洋菓子屋さん。素敵な建物ですね。

「素敵なお庭と建物ですね 写真を撮らせてください」とお願いして撮らせていただきました「あら やだよ~(笑)」って照れ笑いしている大先輩のご婦人とお洒落な作業着も素敵です。

展示場のログハウス。シャープな屋根がいいね。

12:40頃、日高 北平沢の長澤酒造 君が旗 高麗王 醸造元に到着。

おいしそうなお酒がたくさん並んでいるけれど、まずはベーシックなもので、高麗王純米酒 の 四合瓶を購入(一升瓶を背負って走るのもなんなので)。飲むのが楽しみだなぁ。

12:55頃、出発。近くの城跡に行ってみよう!

高麗川橋から八高線の橋梁を望む。架線がありません。スッキリ。

高麗川沿いを北上し、法雲寺横を抜けて、高麗川左岸の断崖の激坂を登る(途中から押し歩き)。

13:15頃、坂戸 西坂戸の田波目(田和目)城跡に到着。

北側から登城?のような方位左の谷状地を通ってアプローチする。

登城しました。鬱蒼と茂り、兵どもが夢の跡、眺望はまったくきかず。

主郭のなかを通り、北東部に出て、田波目城跡を後に北上します。

かわいい門扉周りの飾りつけですね。癒されます。

シャープで深く低い軒先が美しい屋根ですね。アプローチも美しい。

八高線の踏切(踏切からはみ出てないです)。架線がなくてスッキリ。

沿道の花が美しくて。

13:55頃、毛呂山 小田谷鳳谷の毛呂氏館跡に到着。城主の毛呂氏開基の長栄寺の境内となります。お寺さんに手を合わせてから登城開始。

ため池を望む。急坂につきペダルをガードレールに引っ掛けて駐機しています。

境内の案内板より。

登城しました。城跡は倒木で荒れています。

一応、山頂も目指しましたが、半袖半ズボンのサイクルウェアで、草木が生い茂った巨木も倒れる惨状に立ち入るのは危険と判断し、断念しました。貴重な文化遺産なのでせめてもう少し整備してほしいですね。城跡ファンを集めて有志のボランティアで少しづつ整備してはと思いました。

城跡を後にして、北上します。

越生郵便局の窓ガラスに映った僕。

越生の山間の坂道をエッチラオッチラ登る。舗装路は行き止まり、道は土の登山道へ・・。仕方なく愛機を置いて、徒歩で山道をテクテク登る。

14:50頃、越生の高取城跡に登城しました。土塁が美しいですね。

主曲輪は越生神社奥宮となっており、よく除草されています。

石の祠が時の流れを感じさせます。

外側の樹々が生い茂り、眺望はききませんが、これはこれでよいのかも知れません。

駅前の観光協会で入手した「おごせの文化財・越生町教育委員会」によると、(P5~6)

関東平野を望む標高170mの頂上が平らに削られ、土塁や空堀で画された数段の郭(曲輪)の跡がのこされている。(中略)『新編武蔵風土寄稿』には、「越生四郎左衛門屋敷跡 村の西にあり、上り二町許の山丘にして、平地の処は僅か二十間四方もあるべし、古は要害山と唱えし由、今はとなへ誤りて、りふかひ山といへり、山の四辺は大抵松杉の類、雑木茂りて屋敷の跡たるさまおもひやられる」とある。越生四郎左衛門は、南朝の総大将北畠顕家を討ち取るという抜群の戦功を挙げた(中略)。この城の築城者や城主は不明であるが、織物会館付近一帯と伝えられている越生氏の館跡との関係を考えると、館の背後に、有事の際の備えとして築かれた「物見の砦」や「詰めの城」である可能性がある。

とのことでした。

城をあとにします。

15:35頃、JR越生駅に到着。

八高線の発車時刻まで30分ほどあり(一時間に一本)、小腹が空いたので駅前の商店で(レジ手打ち)ちちぶメロンサイダー と チョコバナナロールを買って食べました。意外といけました!

お~、二両編成のワンマン気動車(ディーゼルカー)がやってきました。令和Tシャツを着たカワイイ男の子を抱いたままスマホで列車を撮影しているお父さんがいいですね。

列車は定刻の16:12に発車。高麗川で電車に乗り換えて、東福生駅で降ります。

輪行袋をたたんで仕舞って、のんび~りと巡航し、17:25頃に帰宅しました。

酒造所を1蔵 と 城跡を4城 巡ったポタリングとなりました。

46㌔程 走りました。面白かった~。

乗機は、小さい銀河号 (Dwarf galaxy号・BS スニーカーライト SNL163)でした。

なんとなくJR南武線沿いを

5/12

9:53、愛機Dwarf galaxy号 → 小さい銀河号 (BS スニーカーライト SNL163)で出発!多摩サイを下ります。

10:29、福島町の福島第五児童遊園前の自販機で飲み物を買ったとき、掲示板に目が留まる。いるんだね~。

なんとなく、JR南武線沿いを下ってみることに。左手は高く右手は低い段丘で、たしかここも立川断層帯だよね。清流が湧き出し、断層は命の恵みでもあります。

11:48、延文之板碑出土之地。

11:54、分梅町の八雲神社。創建は鎌倉時代で700年の歴史があるとのこと。

境内は神聖な森の雰囲気があります。凄いね。奥に未調査の古墳もあるとのこと。

木に抱かれた700年の歴史を誇った板碑。名を残したね。

12:06、分倍河原駅前の新田義貞公之像

12:15、府中本町駅の跨線橋でグルグル下ってきました。

12:30、是政橋の辺りに出ました。

12:36、是政橋を渡る。風に吹かれていい眺めです。

是政橋を渡って、JR南武線の向こう側のすごい崖。大丸城跡の一部?

12:46、南多摩駅前のヤッターワン。好きだったなぁ。

12:49、素敵な納屋だね。

13:35、稲田堤の二ヶ領上河原堰から取水した二ヶ領用水の水門。徳川家康の命で造った水路とのことですが、凄いことだね。

この辺り、水路が交錯してます。米どころだったんですね。

13:49、さて、JR南武線 中野島駅から電車に乗って帰ります。

立川駅で乗り換えの際、輪行バックを肩から下げた同好の志とすれ違う。チラッと見ちゃうね。なんか嬉しいな(笑)。

15:08、帰宅。35キロ程走りました。