IZUTHU WINE コンコード 赤

コンコード 赤 生ワイン
井筒ワイン(長野県塩尻市宗賀桔梗ヶ原)

お仕事仲間からいただきました~。
_(_^_)_
酸化防止剤無添加の生ワインの赤。
日本版ボジョレーヌーボーって感じです。
うぉ~、楽しみ楽しみ。

金曜の夜、フライデーナイト(笑)、
仕事終わりの01:30の風呂上り、
冷えたワインを出しまして食卓でムフフ。
娘がチーズケーキを焼いてくれました~。
飲むぞ~、食べるぞ~、ちょっと幸せ~!

飲んでみる( ^ω^)・・・!

美味いっ😋😋😋

井筒さんのHPにもあったけど、
まさにフレッシュ&フルーティーな赤。
もう一度言うけど、

かなり美味い
(⋈◍>◡<◍)。✧♡

熟成の寝かしたワインも美味しいけれど、
僕はやっぱりフレッシュ系が好きかなぁ。

チーズケーキも美味いし、
小っちゃいことですが、ちょっと幸せ。
仕事掛け持ち貧乏暇なしですが・・・。

弦月号 OIL交換 保険更新

弦月号(Kawasaki KSR110)
の オイル交換。
いよいよ20年目に突入ですワン。

それと自賠責保険の更新。
弱気の・・・2年です。
その積み重ねで20年 ( ´艸`) ・・・。
(どっかで3年があった筈だが)
先読みが出来てねぇ~ (´;ω;`)ウゥゥ 。
現状、弦月号はサブ機となっています。
修理が出来れば完全復活予定なんですが。
(重整備はなかなか進まず・・・)


通勤や遠乗りは、安定・静寂(笑)の、
Scarlett号(HONDA CT125)が主力です。

shichi-sui FOUR SEASONS WINTER

七水 活性にごり酒 純米酒
FOUR SEASONS WINTER
虎屋本店(栃木県宇都宮市本町)

日本酒らしからぬお洒落なラベルです。
デザイナーさんプロデュースって感じ。
お味のほうはどうでしょう。

ほほ~、シャンパンのような刺激が!
洗練された都会的な にごり酒 ですね。
ワイン好きな方にはいいんじゃないかな。
たいへん美味しくいただきました・・・。
が・・・。

僕は にごり は、田舎くさい方が好き。
_(_^_)_

STUDLESS

12/11
入間市寺竹のミツミタイヤさんで、

春夏秋タイヤとして使用している
GOOD YEAR CARGO PRO
145/80R12LT 80/78N を

冬タイヤの
BRIDGESTONE STUDLESS W300
145/80R12 80/78N LT に
履き替え(新調)いたしました。

二日連続でミツミタイヤさんだね!
(よかったら是非HPを観てからどうぞ)

我が家のエブリイさんは、
距離をそこそこ走るので、
2シーズンで新品に交換することに。

プラス、雪が降ったら砂を100キロ、
荷室に積んで後輪荷重を増やします。
それでも、FRは滑ります(笑)。
特に 嫁ちゃん の運転が怖いっす。

冬になると、
4駆にしときゃぁよかったって、
毎年思うけど、
春になると、2駆でよかったって、
思ってしまう移り気なオイラです。

今年の冬の雪はどうかなぁ?
大雪対策で鎖のチェーンも持ってるけど、
使う機会がある気がしています。

宮寺氏館跡

12/10

朝イチで母の住まいに向かい、母の車(ワゴンR)を預かって、入間市寺竹のミツミタイヤさんで、ホイル込みでスタッドレスタイヤに交換してもらいました。

165/55 R15 を、

155/65 R14 へ インチダウン。
BLIZZAK VRX2 にしときました。

せっかく入間に来たんだし(笑)、さて、近くに城跡はないかなぁと検索。
なぬ?・・・宮寺氏館跡ですと・・・。
よし、ちょっと行ってみようか!

10:40頃、着いた。
お寺さんをひと回りして駐車場所を探す。
法事をやってるっぽかったので、公園前にちょい置かせていただきました。

宮寺氏館跡(入間市宮寺)

現在は西勝院というお寺さんで、宮寺氏の菩提寺とのことです。

入間市HPより宮寺氏館跡実測図を転載。

入間市HPより宮寺氏館跡解説文を転載
市指定文化財(史跡・昭和59年7月25日)
 宮寺氏は、武蔵七党のひとつ村山党(平姓)の武士で、村山頼家の二男家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって居館を構え、宮寺氏を称したとされる。その後、鎌倉幕府滅亡時には加納下野守(しもつけのかみ)が、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたといわれ、現在は西勝院(さいしょういん)の境内地となっている。
 外郭約130m四方で、内郭の堀跡・土塁の一部が残存している。土塁の外側に沿って、狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていた。周辺には「城ノ腰(しろのこし)」・「城東(しろひがし)」・「的場(まとば)」・「的場後(まとばうしろ)」という小字があり、館に関係のある地名と考えられる。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が出土している。

とのことで、この館の主は、
宮寺氏(平安末・1100年代末)
加納下野守(~鎌倉末・1330年代)
〇〇氏(南北朝・1330年代~)
〇〇氏(~戦国時代・1500年代末)
〇〇氏(~安土桃山・1600年代初頭)
狩尾氏(江戸時代~・1600年代初頭)
伊濃氏(~江戸時代・1600年代初頭)
の居館であったということかな?
範囲は4~500年の期間ですから、数え切れない人達が関わっていて、想像すると気が遠くなりますが、館を巡る人生の攻防は興味深いです。

館の主の移り変わりを7行で書いたけど、数十年の人生でもいろいろあるのに、数百年でこれっぽっちの記録など、何もわかっていないのと同じで、記録に残っていない人々の営みの痕跡が、土で成る城に残っているように思います。

本堂前にてお参りさせていただいた後に、遺構の中央土塁を見学します・・・凄い。
今はなだらかになっていても、無言の存在感がある。
往時の土塁はもっと高く、空堀は深く、険しかったものと推察いたします。

現地解説板より

館南西部の半壊した土塁も残っています。

館西側の水堀は、現在の水路とのことで、往時は水堀内側(右側)に土塁があったと考えられているようです。

館跡北東部の別の案内板より
史跡宮寺館跡
 桓武天皇九代の孫 平頼任は、今からおよそ九百年前、村山に住んで武蔵七党の一つである村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心にひろがって大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府の成立に大きな力となったことは、広く知られているところである。
 村山(平)頼任の子 頼家に四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名のり、三男家範は入間市の金子に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして、二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称して、この地に居館を構えたのである。
 源頼朝、同義経の家来で、源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が、当時の史書に見えるから、十郎家忠らとともに活躍したのであろう。
 すでに八百年以上も昔のことであるから、この居館跡の全体の姿を知ることはむずかしいが、西勝院境内の東部に残る長さ約三十メートル、高さ約二メートルの土塁と空堀は明らかに当時の遺構の一部で、さらにその土塁のつづきは、昭和二十七年ころまで、北隣の荻野家の屋敷の北側約百二十メートルにわたってのこっていたのである。
 元弘三年(西暦一三三三)に鎌倉幕府が滅びたころには、加納下野守なるものがここにいたと伝えられ、江戸時代から狩尾氏、のちに伊濃氏(猪尾、井野尾、伊野尾とも書いた)がいたが、この間のくわしい事情はよくわからない。
 以上宮寺館跡の概略を記して見学者の参考に資するものである。
  昭和五八年九月十九日
   入間市教育委員会
   宮寺郷土を知る会
   入間市文化財研究同好会

とのことです。
こりゃぁ・・・親と四兄弟の居城を巡るようだね(笑)。
こうして、偶然訪れた城跡から、広がってゆくんだよね!
僕の城跡好きは、小学生の頃に釣りの帰りに友人と迷い込んだ(笑)滝山城跡に始まります。その子ども時代の興奮が今も一緒なんだよね・・・進歩してないっす。
( ´艸`) 子供オジサンですから・・・。

13:50頃に帰宅。
自宅と母の住まいとの往復は、弦月号(Kawasaki KSR110)で、快走いたしました。
子供オジサンの愛機ですよ!
来週は、オイル交換と自賠責の更新です。

母の家の解体

10/22 10:14 小物の搬出など。

11/11 9:10 引っ越し。

11/21 12:18 最後の雄姿
今までありがとうございました。

11/22 7:33
カーポート、縁側、庭木や鉢がなくなる。

11/22 11:32
内部から分別して解体しているようです。

11/23 10:37
外部はあまり変わらず。ですが、

内部は内装や断熱材は既になく・・・。

11/24 12:02
建物横に仮囲い骨組みが設置され・・・。

11/26 8:00 重機で解体中。

11/27 7:44 上物は既になく。

残るのは1階床と基礎のみ・・・。

11/29 7:40
基礎がなくなり塀を残すのみ・・・。

11/30 7:41
塀もなくなり、整地と重機搬出を待つ。・

12/1 7:38
きれいに整地され、解体工事は完了です。
区画整理とはいえ、やはり寂しいですね。
中古住宅を僕と祖母の共有名義で購入し、
晩年の祖母、母親、弟、
クミ(メス犬)、ゴン(オス犬)が、
お世話になった家ですから・・・。
僕自身は住むことはなかったけど、
一時期は住所を置かせていただいたり、
僕の本籍地はここですし、
この家のおかげで、僕は自由に生きれた。
めぐり合いも含めて感謝しかありません。
ずっと覚えておこうと思って、
更地に戻る姿をとどめました。

この土地と出会った新しい利用者さんが、
有益に活用されることを心から願います。

喜正 おり酒

喜正 おり酒
野﨑酒造(あきる野市戸倉)

戸倉城下の野﨑酒造の喜正は、何を飲んでも美味いし、大好きな酒蔵ですが、この おり酒 は、季節もので人気のにごり酒です。

米(国産)、米麹(国産米)、醸造アルコール、アルコール分15度以上16度未満となっております。

純米系好きなオイラですが、純米系ではないんですけど、この おり酒 は美味しいです。

美味い😋

日本酒ですけど、
カルピスソーダ的な旨みがあります。
軽快なシュワ感とポップな日本酒感が、
女性に人気な日本酒ジャンルと言えます。
(酔っ払い親父が勝手に言ってます)

飲んでみて!
特に多摩在住のジモティライダー諸氏。
多摩の地酒、なかなか美味しいよ!

大石氏館跡/立川氏館跡

11/28
PorcoRosso号(DAHON K3)で出撃!
久しぶりの自転車で、ダイジョブかな?
今日はバイクより自転車の方がいい。

13:00 大石氏館跡(羽村市羽東3丁目)があったとされる付近に到着。

大石氏は、信濃国の大石郷発祥の氏族とのことで、1351年の笛吹峠の合戦の戦功などで1356年頃に入間や多摩に領地を得て、多摩に移住し各地に城や館を造り、一大勢力を築いた氏族のようです。
一番有名な大石さんといえば赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)ですが、遠い親戚になるようです。

設置されている案内板より。

館跡は、江戸時代の玉川上水の掘削、大正時代の取水工事(羽村-山口軽便鉄道含む)、奥多摩街道の拡張、羽村大橋の架橋工事や擁壁工事等で、旧状を留めていません。
館の選地として、案内板にあるように、鎌倉街道の多摩川渡河地点を抑えつつ、眺望もよく断崖に面した防御性のある当地が選ばれたのだろうと想像します。
今も、奥多摩街道、羽村大橋、多摩川、玉川上水、多摩湖への導水路が交錯する要衝です。

案内板の薄い黄色っぽい線が旧鎌倉街道とのことで、羽村東小を南北に突っ切り、奥多摩街道のS字の東側を沿って羽村大橋北端の西側を下り(遠江坂)、玉川上水を突っ切り、現住宅街を抜けて裏道のT字路を斜めに突っ切り、多摩川を渡っていたようです。

大石氏の館があった位置・・・北は東小を含み、南は段丘上端、西は旧鎌倉街道、東は羽村大橋の延長付近辺りかなぁ・・・狭いかなぁ・・・などと、案内板や空から見た写真を見つつ、妄想してみます。
ほらほら・・・じ~っと見てると、土塁や空堀や虎口が見えてくるでしょう。
( ´艸`)

付近の小さな神社の案内板です。

東小プール南より、旧鎌倉街道が下ったと想像する川崎西公園の斜面を、奥多摩街道S字カーブ方向へと見る(真南向き)。
この左側に館跡があったのではと妄想・・・。

旧鎌倉街道が下る川崎西公園の斜面を西側から見る。
道は奥多摩街道のS字カーブ。
この斜面の向こう側に館跡があったのではと・・・。

有力な古文書や地下遺構でも出てこない限り、特定は難しいでしょうね。

多摩サイを下りま~す。えっほ、えっほ、
なかなかのサイクリング日和ですよ~。

対岸の山並み・・・高月城跡を望む。

対岸の山並み・・・滝山城跡を望む。
逆光で眩しいけど、空模様はダイナミックでキレイだなぁ!
神降臨って感じだね・・・お天道様には叶いませんや。
近いうち、滝山&高月城跡、久しぶりに探訪したいと思います。

15:30 立川氏館跡(立川市柴崎町4丁目)に到着。

館跡に建つ普済寺のHPを見たら、普済寺は立川氏の庇護のもと1353年に館の一角に開山し隆盛を極めたが、1430年頃に立川氏の没落とともに寺は荒廃、1500年代に入り高幡城主の庇護のもと寺は面目を一新したがその後に衰退し、1550年代に立川氏が再び勢力を挽回して大檀那(失地回復・館の主に大復活)となったが、1590年の豊臣軍の攻撃で焼失(落城)したとのこと・・・山あり谷あり、戦国の世ですね。

案内板より

ざっくり館の範囲は、西はJR中央線、南は残堀川、東と北は写真の端ぐらいかなぁ。

別の案内板によると

立川氏館跡(都旧跡)⇒(都史跡)
立川を治めていた豪族・立川氏の館がこの普済寺のある場所にあったと伝えられている。立川氏は、武蔵七党系図によると、西党に属し、鎌倉時代には、幕府に仕え、戦国時代には、関東を制した後北条氏に仕えた。その後、天正十八年(一五九〇)北条氏照の居城である八王子城落城によって、立川氏は浪人となった。後になり、水戸藩士として水戸に移住した。現在でも、当寺の本堂前と裏側墓所に三十六メートル程の土塁が残っている。

首塚
立川宮内少輔宗恒の首塚といわれているが、これについては、江戸時代から二つの説がある。一つは『武蔵名勝図絵』の、宗恒の墓を後になってここに移したものであるとする説。もう一つは『江戸名所図会』の、立川合戦の戦死者の首塚で、宗恒の墓所は不明であるとするものである。
その後、明治十四年にここから六十余枚の板碑が発掘された。
現在、首塚の上には、星梅鉢紋の石板が一枚立っているが、立川氏の墓の石扉の二枚の内の一枚とみられる。

残存遺構の土塁の一部。

残存遺構の土塁の一部。

残堀川の遊歩道から館跡の崖を見る。

対岸より館跡の崖を見る。
当時は天然の崖だけど、凄い落差だよね。

※(おまけ)電車より館跡の崖を見る。

前記空中写真の上部緑地にある土塁の一部といわれている盛土。
貴重な遺構を大切に残してほしいと願います。

16:15 薄暗くなった頃、お腹が空いてきました。
立川市富士見町の奥多摩街道沿いのふじみ食堂。
一度来てみたかったんだよね。

レバニラ炒め定食、ご馳走様でした。

17:55 帰宅。
久しぶりの自転車、お疲れで~す。
少し身体は冷えちゃったけど楽しかった!