村山城跡を歩く

6/9 12:00頃、スカーレット号 (CT125 ハンターカブ)にて、村山城跡(西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷)と伝わる福正寺さんを訪れました。

南に延びる尾根の先端の自然地形を利用した砦規模の城跡でしょうか?

北側の細い尾根続きに堀切を設ければ半ば独立峰となる地形。

東側の法面下。
更に東には小川が流れる。

南側の法面下。

西側の法面下。
更に西には小川が流れる。

南東側の法面を見る。
福正寺さんにお参りします。

一般的に、歴代城主の菩提寺が、新しい領主の庇護のもとに、かつての城主の屋敷跡に、寺の伽藍が広がっているのは、時の流れとしてよくあるケースです。

法堂や客殿の裏の墓地内に、村山土佐守とされる墓があります。

西側の法面上より南南西方向の米軍横田基地方面を見る。
C5ギャラクシーが離陸するところでした。
要衝である多摩川の対岸、丹沢や奥多摩の峰々を見渡せます。

北側の法面上の土塁?より南東方向を見る。
右手には、落ち着いた墓地が広がっています。
城跡内の墓地というのも歴史浪漫がありますね!

東側の法面上の土塁?を見る。

南東側の急峻な法面。

兵どもが夢の跡、城の遺構と断定できる資料や遺構は乏しいようです。

伝承によると、
村山城は武蔵七党のひとつ村山党の本拠地で、庶流には金子氏・宮寺氏・山口氏・仙波氏があるとのこと。
平安時代には城跡の南側の緩斜面に館を築いたことに始まり、時代の移り変わりとともに、非常時の砦であった後背地の丘陵突端に、居館機能を移して城塞化していったのではないかと推察します。
村山氏は板東平氏の一門で、関東の勢力図が一変する各時代を乗り切ってきた。
源頼朝の挙兵・新田義貞の挙兵に参戦して主力を担い、武州平一揆の敗戦等で衰退し、関東管領の山内上杉氏の重臣の大石氏の旗下となり、大石氏が北条氏に臣従すると村山氏も北条氏旗下となり、北条氏の滅亡後、村山氏は帰農したとのことです。

追伸

瑞穂町の郷土資料館にて、

瑞穂町史(¥8000)と瑞穂町文化財マップ(¥200)を購入しました!
窓口の方に「町史は高いから売れないでしょ?」と言ったら、「ここ5年で町史を買った方はお客さまだけだと思います」とのことでした・・・(笑)。
町史には武蔵七党、村山氏、村山氏館跡ほかについての記述があり、文化財マップには村山城跡の南側に存在した館跡の位置情報も記載されています。
ネット情報は間違った記述も多いので、公文書の郷土史家・城館研究者の成果は、出自もはっきりしていて、とても参考になります。

近いうち、村山城跡の追加調査や村山氏館跡を歩いてみたいと思います!
小さい城跡や館跡って、面白いですね!

菅寺尾城跡を歩く

6/8、休日出勤で近くに来ました。
数年前、近くの行政機関に車で来たときは、駐車スペースと時間の関係で城跡を歩くことが出来ず、今回はバイクで来城しましたぁ。
城跡は、川崎市多摩区菅馬場二丁目にあります。

城跡の中心部は上記ではなく、下記の十字付近かなぁ?と思っています。

築城者は寺尾若狭守というのが通説らしいのですが、その他の詳しいことはわかりませんでした。

城跡の北東角部より西方面を望む。

城跡の北東角部より南方面を望む。

城跡西側の遊歩道(空堀)より北方面を望む。

城跡北側の遊歩道(空堀)より東方面を望む。

寺尾台団地の造成で切土された付近の空中に城の本郭があったのでは?などと想像してみましたが、どうなんだろう?郷土史や城郭研究者の刊行物で調べてみたいなぁ。

城跡の南側で 平安時代初期 のお堂跡が出土したとのこと。

この基壇は、発掘調査の成果をもとに復元したものらしい。

EVERY 14回目オイル交換

トランポ・エブリイさんの
5000キロ毎のオイル交換(14回目)
型 式:HBD-DA17V
年 式:2020年2月
走 行:69901キロ
年平均:16131キロ
月平均:1344キロ
日平均:44キロ
ペースで走っています。

スペアタイヤのバルブが劣化していたらしく(エブリイあるある?)、交換していただきました。知らなかったら非常時にスペアタイヤが役立たずで困っていたところでした。
Σ( ̄□ ̄|||)

プラのマグカップをいただきました。
工場:サトウオートサービス
所在:東京都あきる野市
サンキュー!

裁判官の爆笑お言葉集

裁判官の爆笑お言葉集
著者:長嶺超輝
発行:2007/3 ( 1刷)
   2023/10(39刷)
幻冬舎新書

割と有名な本だけど興味もなくて、書店で手にすることもなかったのですが、なんと僕自身が裁判員裁判の裁判員を経験するという、有権者ベースで一年間に裁判員を経験する確率は17700人に1人(裁判員制度ナビゲーション/最高裁判所発行より)という僕としては驚天動地の超貴重な経験をすることができました。

メディアの報道を見て、刑が軽すぎるだの重すぎるだのと言いたい放題だった自分が、裁判員を経験した後は、見方が大きく変わりました。

縁とは不思議なもので、3人の裁判官や6人+2人の裁判員、法務省職員、検事、弁護士、被告、被害者、証人等、僕の普段の日常生活では絶対に知り得ない人達との裁判所内での集いは、僕の人生の転機ともなる出来事だったと思います。

本書は裁判所へ向かう途中の書店で、ふと手にしたものです。初版発売当時は、裁判員裁判(2009~)は始まっておらず、今日の刑事裁判とは異なる面もあるとは思いますが、自分が裁判員を経験する前は全く興味のなかった本が、経験後は違う見方で読み進めることが出来たことに、自分でも新鮮な驚きがありました。

「法という道具を使って、人が人を裁く」とはどういうことなのか、民主主義国家における裁判とはどうあるべきなのか、将来もし自分が裁判員になったらどう振る舞うのか、といったことに、少しでも思いをはせていただけるなら、著者としてこれほど幸いなことはありません。P10

向かって右側の左陪席には、裁判官になって5年以内のフレッシュな判事補が、左側の右陪席にはそれ以上のキャリアがある中堅裁判官が座ります。そして、判決文の案は若手の左陪席が書くことになっています。P96

合議法廷での判決は裁判官全員一致の結論として言い渡されます。(中略)評議で意見が割れたなんてことは、公には一切明かされません。評議の内容は非公表。裏でどれだけ揉めたとしても、まるで何もなかったような顔をして、裁判長は「全員一致」の結論として判決を言い渡さなければならないのです。P114

今、この場で子どもを抱きなさい。
わが子の顔を見て、二度と覚せい剤を使わないと誓えますか。

覚せい剤取締法違反(使用)の罪に問われた被告人に向って。
P118

本件で裁かれているのは被告人だけではなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。
こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを、行政の関係者は考えなおす余地がある。

実母との心中を決行し、自らは生き残ったために承諾殺人の罪に問われた被告人に、「献身的な介護で尽くした息子を、母親は恨んでいない」として、執行猶予つきの有罪判決を言い渡して。
P126

いい息子さんとお嫁さんなんだから、ふたりの面目をつぶすようなことは、二度としてはいけないよ。
入水心中を図った老夫婦のうち、車椅子の妻(当時80歳)のみが死亡した事件。承諾殺人の罪に問われた84歳の夫に対し、執行猶予つきの有罪判決を言い渡した後、50歳の息子を法廷内に呼び寄せ、握手をさせて。
P128

もうやったらあかんで。
がんばりや。

窃盗の罪に問われた被告人に、執行猶予・保護観察つきの有罪判決を言い渡しての、閉廷後の出来事。被告人が退廷するときに、一段高い裁判官席から身を乗り出し、被告人の手を握りながら。
P130

裁判所としても太郎君が心配なので、できるだけ軽い刑にしました。
真面目に務めれば、さらに早く出られます。フィリピンへ帰ったら、いいお母さんになって。

出入国管理及び難民認定法違反(在留期間超過)と、覚せい剤取締法違反(譲渡)の罪に問われた、フィリピン国籍の女性に、懲役2年の実刑判決を言い渡して。
P132

無罪判決や国を負かす判決を出すことが多い裁判官は、いきなり不自然な職場異動を言い渡されたり、出世・昇給が頭打ちになったりするナゾの現象が目につきます。単なる「職場のイヤガラセ」では片付かない問題です。P138

「求刑の8掛け」で懲役などの年数が決められているように見えるのは、裁判官の量刑相場を検察官が知りつくしていて、あらかじめその2割増しで求刑しているから・・・・・・?P172

興味深く、リアルに、読ませていただきました。

裁判官の法廷での被告人への言葉を読んでいると、その情景や事件の背景が浮かんできて、電車内だというのに目頭が熱くなってきてしまいました。

ここには書きませんでしたが、本書での凶悪犯への一線を超えた叱責など、裁判官も人なのだと、これも実感として思うところでありました。

書いてはいけない

書いてはいけない
著者:森永卓郎
発行:2024/3
三五館シンシャ

2月にも前著『ザイム真理教』の項でも書いたけど、僕は森永卓郎さんが大嫌いだった。でも前著を読んで180度見方が変わりました。なぜなら前著が面白かったからです。今回の本も忙しくて・・・積ん読でしたが、電車で出張が続いてその合間に読み進みまして、気になったのは以下で~す!

「日本は世界最大の借金を抱え、財政破綻が国民生活の破綻をもたらす」という恐怖心を植え付けることで、増税や社会保険の負担増を正当化する。もちろん、それは真っ赤なウソだ。P69

1980年度の国民負担率は30.5%だった。2022年度はこれが47.5%と17ポイントも上昇している。(中略)国民の被害は旧統一教会の比ではないのだ。P71~72

安倍首相は、消費税率の引き上げを2度にわたって延期するなど、反財務省の姿勢を貫いた。『安倍晋三回顧録』(中央公論新社)のなかで、安倍首相は次のように語っている。(中略)予算編成を担う財務省の力は強力です。彼らは、自分たちの意向に従わない政権を平気で倒しに来ますから」p72~73

財政緊縮政策を批判する論調を記載したメディアには容赦なく税務調査に入る。P73

今、日本では猛烈な勢いで税収が増え、減税の余力が高まっている。だから、社会保険の改悪ではなく、消費税減税を行い、国民の負担減を図ればよいのだ。そうすれば消費が増えて経済が成長し、さらに税収増につながっていくはずなのだ。P86

税務調査の刃は、メディアに登場する有識者にも向けられる。知人の大学教授は、税務調査を受けて数千万円の追徴金を取られた。不当な追徴だと抵抗したら、「だったら重加算税を課しますよ」と、個人では絶対に支払えない追徴額を口にしたという。(中略)だから〝賢い〟メディアや有識者は絶対に財務省を批判しない。P97~98

『日航123便墜落 遺物は真相を語る』(河出書房新社)で、青山氏は次のような推論を示している。
国産巡航ミサイルの洋上飛行実験中に突発的事故が起きて、日航123便の飛行中、伊豆稲取沖で垂直尾翼周辺に異変を発生させた。即座にファントム二機が追尾してその状況を確認した。自衛隊はそのミスを隠すために一晩中墜落場所不明としていた、と考えると筋が通る。P148~149

この機の墜落四散を願う彼らとしては、もはや手をこまねいて見ているわけにはいかなかった。彼らは考えただろう。今、123便は、平野部に比べればはるかに目撃者の少ない急峻な山岳地帯に入り込んでいる。この機を逃すわけにはいかない。そう考えた自衛隊幹部の間で「撃墜」が決断決行された。P161

特殊部隊が証拠や証人をすべて焼き払う。そのためには一定の時間が必要になる。それが「墜落現場が特定できない」とウソをつき、メディアを混乱させた理由だったのだろう。P165

ブラックボックス(中略)その生データは、現在、日本航空が保管しているのだが、いまだに公開されていない。本章の冒頭に紹介した遺族による公開請求でも、日本航空は一貫して情報開示を拒否している。(中略)なぜ、拒否をするのか。私は、公開されている音声データが改ざんされている可能性が高いからだと考えている。P166

プラザ合意(中略)日本政府は〝無条件降伏〟を呑んだのだ。(中略)日米半導体協定(中略)国際法を無視してまで日本はアメリカの軍門にくだることになったのだ。(中略)日本政府は日航123便の墜落の責任をボーイング社に押し付けたことになる。(中略)大きな見返りが必要になる。(中略)アメリカに「123便のことをバラすぞ」と脅されたら、なんでも言うことを聞かざるをえなくなってしまったのだ。P174~177

勇気を持って、この123便の墜落原因を国民の前に明らかにする。これだけで日本は主権を回復する独立国家への道を歩むことができるようになるはずだ。P202

なかなか、興味深い衝撃的なことを著者の森永氏は主張されているものの、組織の論理の前に個人はかくも無力だとも思いますが、当時の判断を後の時代に検証し、一定期間後に全面的に公開することは、国家の主権や自浄作用、国民の利益に供するものだと思いました。

間の坂 沢の坂

6/2、金子十郎家忠館跡を訪れた帰途に、お弁当屋さんに寄って家族の弁当を注文したら、混雑で受け取りまで時間がかかるので、待ち時間に近くの史跡を検索してみることに。

間坂(羽村市羽中と羽加美の境)は、家から近くて何度も通ったことはありますが、坂の由来は全く知りませんでした。検索で三田氏と小宮氏の名前が出てきて、思わず食いついてしまった次第です(笑)。奥多摩街道の交差点名にもあるので、割と知られた坂かも知れません。

間の坂 沢の坂
 この坂は、中世の豪族三田氏と小宮氏が、領地の境としたところから「あいのさか」と呼ばれ、後に「まざか」と呼び、間坂集落の地名になったといわれています。坂の下は白木・宮ノ下など羽村でも古い集落で坂を登りつめた段丘上は「天竺」と呼ばれる珍しい地名の所です。
 またこの坂を「沢の坂」とも呼び、沢の石垣からはいつも清水が湧いていて、カニやイモリがいたり、ドジョウものぼってくる沢でした。
 春祭りになると山車を引き上げる木やりの声をひときわ高く張り上げる坂で、手車の時代には、田んぼや水車場への往復や、製糸工場への荷車の上り下りに、苦労の多かった坂でもありました。
  平成五年三月 羽村市教育委員会

カニ、イモリ、ドジョウが過去形のようですが、今はどうなんだろう・・・?

雪おんな縁の地

現地案内板より

Wikipediaより
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『怪談(kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。
あらすじ
この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。

女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「お前もあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、お前はまだ若く美しいから、助けてやることにした。だが、お前は今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年後、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出逢う。二人は恋に落ちて結婚し、二人の間には子供が十人も生まれた。しかし、不思議なことに、お雪は十人の子供の母親になっても全く老いる様子がなく、巳之吉と初めて出逢った時と同じように若く美しいままであった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉が言った。「こうしてお前を見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、お前にそっくりな美しい女に出逢ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」

巳之吉がそう言うと、お雪は突然立ち上り、叫んだ。「お前が見た雪女はこの私だ。あの時のことを誰かに言ったら殺すと、私はお前に言った。だが、ここで寝ている子供達のことを思えば、どうしてお前を殺すことができようか。この上は、せめて子供達を立派に育てておくれ。この先、お前が子供達を悲しませるようなことがあれば、その時こそ私はお前を殺しに来るから……」
そう言い終えると、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙出しから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。

Wikipediaより
原典
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い。現在の調布市は当時、東京府北多摩郡調布町で無関係)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は信憑性が高いと考えられ、2002年には、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市千ヶ瀬町の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。表側には碑文が刻まれ、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれている。江戸時代の日本は現在よりも気温が低く、現在の東京都多摩地域西部に相当する地域は冬に大雪が降ることも珍しくなかった点から、気象学的にも矛盾しない。

いまじゃ 雪おんな の風情もないけど、こうしてみるとなかなかの渓谷だね!

菅生氏館跡を歩く

近くで木造住宅の耐震改修工事に関わっていて、以前から館跡が気になっていました。

ネット地図では上記の位置に館跡が表記されていますが、

実際は少し東側の十字の辺りが残存遺構?のような気がする・・・と現地を見て思えてきましたが・・・どうでしょう?
数日前に、菅生氏館跡で検索すると必ず出てくる正勝神社にお参りしておりまして、

現地案内板によると、(前略)元暦年間(1184-1185)に当地に居住せじ武蔵七党中の横山党より出でし菅生次郎経孝と称する豪族の嫡子菅生太郎有孝の祈願所でした(後略)・・・当時はもう少し奥地に・・・とのことでした。

5/18の14:30頃、菅生太郎有孝と菅生次郎経久の兄弟塚の伝説地に立ち寄ってから、

14:40頃に菅生氏館跡とネット地図に表記されている地点の10m北側(笑)に到着しました。向こうに見える山が国土地理院地図上の十字地点になります。

山の南斜面の遊歩道?を少し歩いてみると、雰囲気は空堀(縦堀)跡なんですけどね(笑)。

国土地理院地図上の十字地点にある受水槽のある丘は、館の郭(曲輪)跡のひとつだったら嬉しいんだけどなぁ~と・・・。

受水槽のある丘に続く土塁状の尾根ラインを、丘の東から西向きに見る。

右側は受水槽のある丘で、土塁状の尾根ラインを、丘の東から南東向きに見る。
時の流れで左側は墓地で大規模に造成されていますが、右側の土塁状の尾根ラインがもしも館跡の遺構であったとするなら、とても嬉しいんだけどなぁ~・・・観光資源にもなるし・・・と思ったのですが、真実はいかに?

帰途に、館跡東方のR411の東側(国土地理院地図の卍マーク)の菅生氏の菩提寺とされる福泉寺に寄ってみましたが、

裏の墓地にあるらしい菅生太郎の子孫の墓とされる自然石二基と地蔵菩薩一基は、よくわかりませんでした。

鎌倉時代から室町時代の板碑が所蔵されているそうです。

金子十郎家忠館跡を歩く②

(5/11その2 金子十郎家忠館跡を歩く より続く)
 6/1、午前中で終わった仕事現場からの直帰の途中で入間市博物館に立ち寄り、特に中世の展示物を見学して、市で刊行している中世城館跡に関する書籍を閲覧していて衝撃を受けた。
 5/11に歩いた金子十郎家忠館跡の想定位置が全く違う・・・(爆)。ネット地図あるあるですが、中世の館跡は正確な所在が不明瞭なことが多くて、違う位置に表示されていることも多くて・・・(笑)。
・入間市博物館紀要第1号
・入間市博物館紀要第12号
・板碑で読み解く武士と寺院
・木蓮寺村絵図 を購入して、研究だぁ!
 金子館跡は、瑞泉院跡の南側、赤城明神(現桂川神社)の南西に描かれています。

入間市博物館紀要第1号より

 木蓮寺村絵図でも金子館跡は、瑞泉院跡の南側、赤城明神(現桂川神社)の南西に描かれています。

木蓮寺村絵図より

 ネット地図では瑞泉院跡や桂川神社の北側に表示されています・・・違うじゃん(笑)そっちじゃない!

 金子館跡は、木蓮寺の字の下の + の辺りを中心にした台形平面の縄張りで、館跡を囲う道路は空堀跡なのではないかと思えてきました。では、現地に行ってみましょう。

 6/2、9:00頃にスカーレット号 (CT125 ハンターカブ)にて自宅を出発し、途中コンビニで絵図のコピーをとり、9:30頃に桂川神社に到着、まずはお参りいたします。

1190年に金子十郎家忠・畠山重忠、
1213年に金子十郎家忠の由緒あり!

 館跡外郭の北端付近かな?

 道路(堀跡)との比高差は見事で、館跡内郭の北端といってもいいように思える。

 北端から館跡の北東方向を巡る断崖は、当時としては比高差も十分(堀は更に深い)で、見ていて僕的には発見した嬉しさからか震えが来ましたよ・・・すげえ!

 館跡北東部、時代の流れで下部は玉石積となっていますが、上部は土の斜面となっています!

 館跡北東部をふり返って!鬱蒼と茂った土の斜面がイイネ(通りすがりの人の立場でですが・・・)!

 上の地図の十字のすぐ東、内郭を南北に突っ切る空堀跡か?

 上の地図の十字のすぐ北、内郭を東西に突っ切る空堀跡か?

 館跡の西側は、現況では館跡との比高差も少なく、堀は埋まって(現道路)しまったのかも知れません。

 ということで、金子十郎家忠館跡は、僕的にはここだ!と思っています。

 がしかし、市の刊行物によれば、他説もあるところが歴史の面白いところです。
 例えば、
・「答説」の館跡の絵図に土塁がない。
・現地に土塁などが確認できない。
・館に関係する小字の種類もわずか。
・板碑も中世陶器も出土していない。
・館というより櫓か砦規模。
・館跡とは今井城なのではないか。
 などなど、専門家が頭を悩ませているようです。

 城館跡巡りって、本当に面白いですね。箱付きのカブ系は城館跡巡りに相性ばっちりの機体といえるかも知れません。

小川太郎宗弘館跡🐾~小川城跡👀~高月城跡👀~勝沼城跡👀 ハンターリアショック交換試運転

5/26
箱を装着したスカーレット号 (CT125 ハンターカブ)は、積載時の後輪荷重が増した影響だと思うけど、カーブでフルバンクした状態のリアの挙動が不安定に感じられて、気持ちよく走りたいし(ヘタレだし・・・笑)、安全性向上の為にもリアショックを交換してみることにしました。
10:00頃、いつものPeaceS(あきる野市草花)さんへ。

お店に入荷したNEWリアショックアブソーバーを確認して、僕には整備の才能がありませんので(T.T)、いつものように交換作業をお願いしました。

代車のアドレスをお借りして、近所の史跡探検に向かうのであった。
ちょい古?のアドレスはまさに動く椅子(笑)といった感じで、交換されてるサスも硬めでバッチグーの乗り味っすね。

あえて古道っぽい奥の細道(笑)を南下して、
10:30頃、やってきました小川太郎宗弘館跡(あきる野市小川)へ。

跡地と表示されている場所は、林泉寺と駐車場になっていました。
ネットでググってみたら、林泉寺は西党小川太郎宗弘の居館跡という伝承があって、末裔には薩摩国で戦国時代に至るまで同地で栄えた一族もあったようです。

館跡があったとするならば、遺構は道路に囲まれた敷地形状のみなのかも知れません。
いま見ると、館跡とされる地点の鬼門(北西)方向の道の出っ張りが気になりますね。
(次回に行ってみよう)

館跡の南西の道向かいには、小さなお宮とお地蔵さんや五輪塔が並んでおりました。
(小川太郎宗弘一族と何か関係がありそうですが、あきる野市史等の公的資料で調べてみたいですね)

相当な古さのお地蔵さんだと思いますが、写真右端のお地蔵さん(後世に頭部を復刻?)の表情に親しみを感じてしまいました。

不審者に間違えられる前に(笑)、小川太郎宗弘館跡を後にします。

10:55頃、直線距離で300m程南にある小川城跡(宝清寺・あきる野市小川)を南方から望む。

同地点で向きを変え、更に直線距離で400m程南の秋川の対岸にある高月城跡(八王子市高月町)を北方から望みます。

ここで連絡が入ったので、お店に戻ります。

じゃ~ん、
11:10頃にリアショックアブソーバーの交換完了!

黒から赤へ、違和感が全くない(笑)。

選んだのは、純正カスタマイズパーツとしてHonda公式サイトにも掲載されている
SP武川・リアショックアブソーバー
CT125ハンターカブ用
スプリングプリロード:5段階調整
取り付け長:370mm
材質:【本体】スチール製
   【シリンダー】クロム メッキ
   【スプリング】レッド塗装
品番:0SS-ZN-06040149
   カラークロムメッキ/レッド
適用号機:JA65-1000001~

実は、JA55用としては廃番となっていて、JA65用を取り付けています。全く同じ商品なのか、違うのか、当方にはわかりませんが、ジャストフィットで装着出来ました。
取り付け長はノーマルと同じ370mmとされていますが、実際は1センチ程SP武川製の方が長く、足つき性は若干悪くなり、ライトの光軸が下がって微調整を要しますが、バンク角は若干増える方向ですので、僕的にはありがたいですね!

試運転を兼ねて寄り道(笑)、
12:40頃に勝沼城跡(青梅市東青梅)を望みます。

昔来たなぁ~、今日は遠くから見るだけ。今度は探索に来ますね。

13:30頃に奥多摩湖畔へ。

試運転で走った奥多摩路でしたが、スプリングは1番柔らかい設定で、それでも実にしっかりしていて、やっぱ違うな~とハッキリ実感出来るほど、走りは良くなりました。今までは2~3往復フワフワするところ(笑)を1往復+でフワっと収まって、違うマシンに乗っているように安定してフルバンクでカーブを回ることが出来る感じですね。履いているBSバトラックスも舗装路ではバッチグ~~~(古語)!

ライディング巧者の方は、フワフワのショックアブソーバーでも、ツルンツルンのタイヤでも、笑いながらガンガン行けるかも知れませんが、ヘタレ&ビビリなオイラは、マシンの性能に頼っておりやんす(カブですが・・・笑)。

帰途にお弁当屋さんに寄って、家族の遅い昼食を買って、箱詰め(笑)して帰宅しました(換気しないと後が臭い・・・バーガー系はもっと最悪です)。