百姓から見た戦国大名

百姓から見た戦国大名

著者:黒田基樹 発行:2006/9 ちくま新書

読んでいてぐっときた部分は、

大名としての武田氏の存続のためには、そうした世論を真摯に受けとめなければならなかった。信玄は、世論の要求に応えるために、クーデターを起こし、実力で代替わりをおこなった。そして代替わりによる、「世直し」のための対策を大々的に行ったのだろう。それが、人々をして、救世主のような扱いをさせることになったのだろう。(P26~27)

このように敵地に侵攻すると、まず間違いなく敵地の作物を刈り取り、生産破壊が行われた。こうしたことを、刈田狼藉といい、敵地の地力を衰退させるための一般的な戦略となっていた。(中略)その地域の人々はたちまち深刻な飢餓におちいることになった。そのうえ容赦のない掠奪が繰り広げられた。それは作物をはじめ、雑具と呼ばれた日常生活品、さらには人身そのものに至るまで、あらゆるものが対象にされた。(P47)

戦国時代の戦争は、けっして戦国大名やその家臣たちだけのものであったのではなく、その根底には、そうした村人の戦争参加があったことがわかる。しかもそれが自身やその家族の生存のためであったところに、事態の深刻さがうかがわれる。自村では生活できないから戦争に行ったのである。まさに「口減らしの出稼ぎ」であった。(P49)

村同士の、武力をともなった争いは、当時の支配者からも「合戦」と表現された。「合戦」は、決して領主レベルだけのものではなかった。このことから中世というのは、領主から民衆までの多様な階層で、いたるところで合戦が繰り広げられていた時代であった。(P67)

領主同士の合戦とみえるものの根底には、こうした村々同士の用益をめぐる紛争があった可能性は、限りなく高い。(P93)

城の維持・管理についての村々の負担は、村にとってはどのような意味があったのであろうか。(中略)城は、村々の避難所としても機能したからである。敵軍が来攻してきたとき、村人は領域の城に避難した。敵方軍勢による、情け容赦のない掠奪から逃れるためである。(P111)

北条氏の領国支配の内容をみていくと、それこそ近世社会の原型といって差し支えのないものである。このことはむしろ、戦国大名・国衆の領域権力が、近世権力の原型であったとみるべきことを示している。決して信長・秀吉が傑出していたわけではなかった。(P143)

こうした対策によって、領国では耕作が維持され、秋の収穫から回復が見込まれることになったが、それが一瞬にして台無しになるような事態が生じた。永禄3年9月からの上杉謙信の関東侵攻である。(中略)この時の進軍によって、領国は「国中山野の体」、「山野の体、年月経られば、侍・人民共に退転すべし」「相州悉く亡国と成る」といわれるような状態になった。上杉軍によって散々に掠奪された結果である。(P162)

そして村の側でも、決して戦国大名の言いなりになったわけでもなかった。確かに徴兵台帳は作成され、それに基づいて実際の動員もあった。しかしそもそも台帳作りの際に、「一人も漏らさずに記載するように」とか、「精兵を村に残して、戦争の役に立たないものを出したら、村役人を斬首する」とか言われているから、村は、村そのものの防衛のために、精兵を村に温存しようとしていたことがわかる。(P204)

村にとっては、自村の存立こそが最大の課題であり、(中略)誰であってもいいから、ただ強い領主に従うのみといって、村の存立を保障してくれる大名・領主を選択した。村々は、特定の大名・領主と、決して運命をともにすることはなかった。これこそ、戦乱のなかでの存続を図る、村のしたたかな知恵に他ならなかった。(P205~206)

当時の村人の逞しく生きる姿が目に浮かぶようです。 私たちはまさに、慢性的飢饉を乗り越えた人々の子孫にあたる。(P61) のですよね。戦国時代のムラや領国の概念は、今の日本国に相当すると思うけど、現代も、好戦的な国家が割拠しているし、それぞれに内政上の不安定な問題を抱えているし、そんななかで、平和を維持していくにはどうすればいいのか、歴史は語っていると思います。

英雄目線の戦国大名でなく、百姓から見た戦国大名に興味のある方、ご一読をお勧めします。興味のある方はとっくに読んでいるかな。

(;^_^A アセアセ・・・

(2019 年の37冊目)

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