報恩寺城を歩く

5/11 その1
 12:25 頃 スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) にて自宅を出発、青梅方面へ向かう。

 仕事の用事が済んで、付近を探索してみると、すぐ近くに報恩寺城跡(東京都青梅市今寺)があるようなので、行ってみることに。

 西は霞川を堀として断崖・土塁、北も断崖・土塁、東はたぶん空堀・土塁(現況は道路や宅地)、南もおそらく空堀・土塁(現況は拡幅道路・石積)で囲まれた中世の館規模の戦乱に備えた在地領主の館や城塞化した寺院なのカモ知れない・・・などと勝手な妄想が膨らんでまいります。

 上記の✙より真っ直ぐ南に延びる道路が昔からある登城口の名残りで、寺の周りの道路は空堀跡で、登城口との交差部は木橋又は土橋があったのではないか・・・などと想像してみると、楽しいですよね(あくまでも僕の勝手な想像なんですが)。

 南側の道路から北向きに山門を見る。
 立派な門構えですね。
 地面の高低差も解ります。

 案内板によると、
 平安時代の弘仁12年(西暦822)の開創。
 鎌倉時代の元亨2年(西暦1322)に平(三田)清綱による再興。
 安土・桃山時代の天正年間(西暦1573~91)の藤橋城主平山越前守重吉による再々興。
 その他、数え切れない人々の助力や願いが積み重なって、今この場所があるのだと思いました。

 七福神の参拝ルートを歩いていたら、通路から外れて北側の斜面のところに出てしまいました。草木が鬱蒼としていますが往時は急斜面で落差も更にあったことでしょう。

 七福神の参道に戻ると、遥か彼方に富士山が見えました。

 藤橋城重臣 中村次郎庄衛門 供養塔の前には、直径2mはあろうかという大樹の切株が残っていて、樹種はわかりませんが、樹齢は恐らく相当なものでしょうし、寺の歴史の深さを物語っているようです。

 西側を流れる霞川の対岸から城跡を見る。木々の生い茂る断崖上部は盛土状のように見えてしまい、土塁の名残りではないかと思えました。
 帯状の盛土とか窪みって、土塁や空堀のように見えてきちゃうんだよね~(笑)。

 帰宅後に資料青梅市の中世城館跡:青梅市教育委員会に報恩寺の項があって、あながちオイラの推測も間違っていなさそうでしたが、先に読んでから行けば西側の虎口?をよく見られたのに・・・(笑)。出先で行う地図検索でたまたま見つけた小さな城館跡に向かうことが多いし、その偶然の出会いや発見が面白いので、資料はいつも後追いで調べることが多いんですよね~。

 13:40頃、法恩寺城跡を後にして、東へ向かいます。

 藤橋城跡(東京都青梅市藤橋)を見る。

 今井城跡(東京都青梅市今井)を見る。

 更に東へ向かうのであった。

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