金子十郎家忠館跡を歩く

5/11 その2
 今井城跡から東進してきた スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) は、13:55頃にファミリーマート入間木蓮子店で小休止。購入した冷たい飲み物と菓子パンでホッと一息。
 14:10頃に出発、裏道を北に進み、14:15頃に金子十郎家忠館跡(埼玉県入間市木蓮子)とされる辺りに現着しました。

 見事にひな壇上に造成された巨大な墓地が広がっておりました。

 館跡らしい痕跡も、金子氏一族の菩提寺の瑞泉院もなくなりましたが、供養塔や歴代住職の墓は残されていました。

 軒下の白い解説板によると、

 金子十郎家忠の墓
 家忠は保元の乱(1156年)や源頼朝の挙兵(1180年)などを中心に活躍した鎌倉初期の武将である。19才で保元の乱に出陣して敵の大将鎮西八郎の部下で鬼神といはれた高間三郎、四郎を討ち、その名を天下にひびかせた。
 治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵のときは畠山重忠とともに衣笠城を包囲して三浦大介義明を討破った。この戦で家忠は身体に21本の矢をうけたが、それにひるまず戦功を重ねた。また源義経に従って多くの戦巧をあげ、武蔵、伊豆、下総の地頭を歴任した。家忠が30才になった仁安3年(1168年)に社殿を造営して武運長久を祈ったが、これが白髭神社の始めだといわれている。
 保延4年(1138年)に生れ建保4年(1214年)2月17日にこの世を去っている。
 昭和43年3月
 入間市教育委員会 木蓮寺長寿会

 金子氏一族の宝篋印塔 付 位牌
 市指定史跡
 指定年月日 昭和47年10月20日
 この場所にはかつて瑞泉院(現・廃寺)があった。瑞泉院は武蔵七党の村山党に属し、平安時代末期の保元・平治の乱や源平の合戦で数々の武功を立てた、金子十郎家忠が開基したといわれ、代々金子氏一族の菩提寺であった。瑞泉院とは家忠の院号である。
 現在この場所には6基の宝篋印塔(供養塔)が立っている。いずれも、造立年代、造立者、供養を受けた人など不明であるが、塔の形式から、当地に徳川の支配が及び、金子氏一族が当地を離れた戦国時代末期または江戸時代前期に造立されたものと推定される。
 また、位牌には、銘文が上下2段に金泥で書かれている。上段中央に金子十郎家忠の印号法名、向かって右に家忠の弟である親範、三男高範、左に長男家広、嫡孫家繁と並び、下段には家忠の妹のほか高範を除く4人の夫人の法名が記されている。またそれぞれの名の右には没年、俗名、続柄が記されている。
 製作年代は不明であるが、形式からみて江戸時代のものと推定される。
 令和3年3月1日
 入間市教育委員会 入間市文化財保護審議委員会

 平安時代末頃から戦国時代の末頃まで、約400年以上もこの地で勢力を張っていた金子氏に感銘を受けました。

 金子氏発祥の地という案内板をどこかで見て、ふいに思い出したのが、高校1年生の頃に、金子さんというクールビューティーな女の子に告白してフラれたことです(爆)。そうか・・・一族の末裔にフラれていたのかも知れないね・・・(笑)。

 続いて、スカーレット号は北に向かうのであった。

(6/1、6/2 金子十郎家忠館跡を歩く②続編あり)

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