中山家範館跡を歩く スカーレット号オイル交換

5/11 その4
 泉ヶ城跡から西進してきた スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) は、15:30頃に中山家範館跡(埼玉県飯能市中山)の西側にある智観寺の門前に到着しました。

 智観寺は中山氏代々の菩提寺とのことで、まず本堂にお参りの後、中山家範館跡に向かいます。
 上図の十字ポイントの左上の道が「状になっている部分に空堀の痕跡(下図の〇部)があり、覗き込んで思案していると突然近所の老紳士が登場し、有り難いことに詳しく現地と照らし合わせて解説してくださり、堀の範囲や子供の頃はまだ堀が残っていたことなど、楽しくお聞きすることが出来ました。僕はなんてラッキーなのでしょう!
 現地に案内板があったものの薄くなって判読不能でしたが、看板据付の同じ内容の紙をいただき、下図として添付し文面を転写させていただきました。

埼玉県指定旧跡 中山家範館跡
飯能市大字中山496番地2ほか
昭和38年8月27日指定
 中山家は武蔵七党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される仁治2・3年の板碑(1241・1242)がある。
 中山家範は後北条氏に従い、天正18(1590)八王子城で戦死している。
 この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの堀をめぐらしていた。この内堀は東西約60メートル、南北約90メートルで、外部は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、館は丹生堀と加治堀の水源に挟まれていた。また、西に智観寺、北西に丹生社、北に鎮守十二社が置かれていた。
 館の周辺には中山家に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武士団の長として活躍した。
 館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
平成8年3月 飯能市教育委員会

 上図の〇部を東向きに空堀を見る。

 上図の〇部の左にて南向きに空堀跡を見る。

 お寺さんの境内にある 中山信吉と智観寺 という解説板を読みました。
 中山家範は北条氏の八王子城を守って討死して武名を残したが、一族の中山信吉は徳川家康に取り立てられ、水戸藩の付家老となって活躍し、幕末まで代々の当主が夫妻で智観寺に葬られたとのことです(一部を除く)。

 凄いなぁ~と感銘を受けていると、幸運なことに突然に住職と思われる方から「お殿様のお墓はお参りされましたか?」とお話をいただき、「はい、お参りさせていただきました」とお話しさせていただきました。資料本を販売していないか問い合わせたところ、智観寺の歴史という冊子があるとのことで、客殿の受付で購入させていただきました。

 受付の横に素敵な絵が飾られていました。娘さんがお書きになった中山家の館想像図だそうで、「あくまでも資料にはならない想像図ですよ」とのことでしたが、絵本の挿絵になるような楽しい作品でしたもので、ご住職の許可を得て撮影させていただきました。

 館は消失し、主の命は尽きても、一族の営みは大成して続いたのだなぁ~と感銘を受けました。
 誰であっても連綿と遡れる先祖が必ずあり、激動の時代を潜り抜けて、今に繋がっているのは、あたり前のようでいて、実はとてつもなく凄いことなんですよね。などと思い付きましたが・・・(笑)。

 帰途につきます。

 たまたま通りかかった飯能市柳町の酒屋さんに寄って、地酒を求めたところ、一升瓶で出て参りました(四合瓶はないって・・・笑)!せっかくなんでプチプチを巻いてもらって購入しました(このお酒、たしか去年飲んだな~)。

 17:20頃にいつものバイクショップピース(あきる野市草花)に寄って、スカーレット号の1500km毎(myルール)のオイル交換をお願いしました。

 いい色のようで安心しました。

 17:50頃、帰宅しました。

 本日も、楽しい城跡めぐりツーリングでした!

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