村山城跡を歩く

6/9 12:00頃、スカーレット号 (CT125 ハンターカブ)にて、村山城跡(西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷)と伝わる福正寺さんを訪れました。

南に延びる尾根の先端の自然地形を利用した砦規模の城跡でしょうか?

北側の細い尾根続きに堀切を設ければ半ば独立峰となる地形。

東側の法面下。
更に東には小川が流れる。

南側の法面下。

西側の法面下。
更に西には小川が流れる。

南東側の法面を見る。
福正寺さんにお参りします。

一般的に、歴代城主の菩提寺が、新しい領主の庇護のもとに、かつての城主の屋敷跡に、寺の伽藍が広がっているのは、時の流れとしてよくあるケースです。

法堂や客殿の裏の墓地内に、村山土佐守とされる墓があります。

西側の法面上より南南西方向の米軍横田基地方面を見る。
C5ギャラクシーが離陸するところでした。
要衝である多摩川の対岸、丹沢や奥多摩の峰々を見渡せます。

北側の法面上の土塁?より南東方向を見る。
右手には、落ち着いた墓地が広がっています。
城跡内の墓地というのも歴史浪漫がありますね!

東側の法面上の土塁?を見る。

南東側の急峻な法面。

兵どもが夢の跡、城の遺構と断定できる資料や遺構は乏しいようです。

伝承によると、
村山城は武蔵七党のひとつ村山党の本拠地で、庶流には金子氏・宮寺氏・山口氏・仙波氏があるとのこと。
平安時代には城跡の南側の緩斜面に館を築いたことに始まり、時代の移り変わりとともに、非常時の砦であった後背地の丘陵突端に、居館機能を移して城塞化していったのではないかと推察します。
村山氏は板東平氏の一門で、関東の勢力図が一変する各時代を乗り切ってきた。
源頼朝の挙兵・新田義貞の挙兵に参戦して主力を担い、武州平一揆の敗戦等で衰退し、関東管領の山内上杉氏の重臣の大石氏の旗下となり、大石氏が北条氏に臣従すると村山氏も北条氏旗下となり、北条氏の滅亡後、村山氏は帰農したとのことです。

追伸

瑞穂町の郷土資料館にて、

瑞穂町史(¥8000)と瑞穂町文化財マップ(¥200)を購入しました!
窓口の方に「町史は高いから売れないでしょ?」と言ったら、「ここ5年で町史を買った方はお客さまだけだと思います」とのことでした・・・(笑)。
町史には武蔵七党、村山氏、村山氏館跡ほかについての記述があり、文化財マップには村山城跡の南側に存在した館跡の位置情報も記載されています。
ネット情報は間違った記述も多いので、公文書の郷土史家・城館研究者の成果は、出自もはっきりしていて、とても参考になります。

近いうち、村山城跡の追加調査や村山氏館跡を歩いてみたいと思います!
小さい城跡や館跡って、面白いですね!

菅寺尾城跡を歩く

6/8、休日出勤で近くに来ました。
数年前、近くの行政機関に車で来たときは、駐車スペースと時間の関係で城跡を歩くことが出来ず、今回はバイクで来城しましたぁ。
城跡は、川崎市多摩区菅馬場二丁目にあります。

城跡の中心部は上記ではなく、下記の十字付近かなぁ?と思っています。

築城者は寺尾若狭守というのが通説らしいのですが、その他の詳しいことはわかりませんでした。

城跡の北東角部より西方面を望む。

城跡の北東角部より南方面を望む。

城跡西側の遊歩道(空堀)より北方面を望む。

城跡北側の遊歩道(空堀)より東方面を望む。

寺尾台団地の造成で切土された付近の空中に城の本郭があったのでは?などと想像してみましたが、どうなんだろう?郷土史や城郭研究者の刊行物で調べてみたいなぁ。

城跡の南側で 平安時代初期 のお堂跡が出土したとのこと。

この基壇は、発掘調査の成果をもとに復元したものらしい。

間の坂 沢の坂

6/2、金子十郎家忠館跡を訪れた帰途に、お弁当屋さんに寄って家族の弁当を注文したら、混雑で受け取りまで時間がかかるので、待ち時間に近くの史跡を検索してみることに。

間坂(羽村市羽中と羽加美の境)は、家から近くて何度も通ったことはありますが、坂の由来は全く知りませんでした。検索で三田氏と小宮氏の名前が出てきて、思わず食いついてしまった次第です(笑)。奥多摩街道の交差点名にもあるので、割と知られた坂かも知れません。

間の坂 沢の坂
 この坂は、中世の豪族三田氏と小宮氏が、領地の境としたところから「あいのさか」と呼ばれ、後に「まざか」と呼び、間坂集落の地名になったといわれています。坂の下は白木・宮ノ下など羽村でも古い集落で坂を登りつめた段丘上は「天竺」と呼ばれる珍しい地名の所です。
 またこの坂を「沢の坂」とも呼び、沢の石垣からはいつも清水が湧いていて、カニやイモリがいたり、ドジョウものぼってくる沢でした。
 春祭りになると山車を引き上げる木やりの声をひときわ高く張り上げる坂で、手車の時代には、田んぼや水車場への往復や、製糸工場への荷車の上り下りに、苦労の多かった坂でもありました。
  平成五年三月 羽村市教育委員会

カニ、イモリ、ドジョウが過去形のようですが、今はどうなんだろう・・・?

雪おんな縁の地

現地案内板より

Wikipediaより
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『怪談(kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。
あらすじ
この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。

女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「お前もあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、お前はまだ若く美しいから、助けてやることにした。だが、お前は今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年後、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出逢う。二人は恋に落ちて結婚し、二人の間には子供が十人も生まれた。しかし、不思議なことに、お雪は十人の子供の母親になっても全く老いる様子がなく、巳之吉と初めて出逢った時と同じように若く美しいままであった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉が言った。「こうしてお前を見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、お前にそっくりな美しい女に出逢ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」

巳之吉がそう言うと、お雪は突然立ち上り、叫んだ。「お前が見た雪女はこの私だ。あの時のことを誰かに言ったら殺すと、私はお前に言った。だが、ここで寝ている子供達のことを思えば、どうしてお前を殺すことができようか。この上は、せめて子供達を立派に育てておくれ。この先、お前が子供達を悲しませるようなことがあれば、その時こそ私はお前を殺しに来るから……」
そう言い終えると、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙出しから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。

Wikipediaより
原典
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い。現在の調布市は当時、東京府北多摩郡調布町で無関係)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は信憑性が高いと考えられ、2002年には、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市千ヶ瀬町の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。表側には碑文が刻まれ、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれている。江戸時代の日本は現在よりも気温が低く、現在の東京都多摩地域西部に相当する地域は冬に大雪が降ることも珍しくなかった点から、気象学的にも矛盾しない。

いまじゃ 雪おんな の風情もないけど、こうしてみるとなかなかの渓谷だね!

菅生氏館跡を歩く

近くで木造住宅の耐震改修工事に関わっていて、以前から館跡が気になっていました。

ネット地図では上記の位置に館跡が表記されていますが、

実際は少し東側の十字の辺りが残存遺構?のような気がする・・・と現地を見て思えてきましたが・・・どうでしょう?
数日前に、菅生氏館跡で検索すると必ず出てくる正勝神社にお参りしておりまして、

現地案内板によると、(前略)元暦年間(1184-1185)に当地に居住せじ武蔵七党中の横山党より出でし菅生次郎経孝と称する豪族の嫡子菅生太郎有孝の祈願所でした(後略)・・・当時はもう少し奥地に・・・とのことでした。

5/18の14:30頃、菅生太郎有孝と菅生次郎経久の兄弟塚の伝説地に立ち寄ってから、

14:40頃に菅生氏館跡とネット地図に表記されている地点の10m北側(笑)に到着しました。向こうに見える山が国土地理院地図上の十字地点になります。

山の南斜面の遊歩道?を少し歩いてみると、雰囲気は空堀(縦堀)跡なんですけどね(笑)。

国土地理院地図上の十字地点にある受水槽のある丘は、館の郭(曲輪)跡のひとつだったら嬉しいんだけどなぁ~と・・・。

受水槽のある丘に続く土塁状の尾根ラインを、丘の東から西向きに見る。

右側は受水槽のある丘で、土塁状の尾根ラインを、丘の東から南東向きに見る。
時の流れで左側は墓地で大規模に造成されていますが、右側の土塁状の尾根ラインがもしも館跡の遺構であったとするなら、とても嬉しいんだけどなぁ~・・・観光資源にもなるし・・・と思ったのですが、真実はいかに?

帰途に、館跡東方のR411の東側(国土地理院地図の卍マーク)の菅生氏の菩提寺とされる福泉寺に寄ってみましたが、

裏の墓地にあるらしい菅生太郎の子孫の墓とされる自然石二基と地蔵菩薩一基は、よくわかりませんでした。

鎌倉時代から室町時代の板碑が所蔵されているそうです。

金子十郎家忠館跡を歩く②

(5/11その2 金子十郎家忠館跡を歩く より続く)
 6/1、午前中で終わった仕事現場からの直帰の途中で入間市博物館に立ち寄り、特に中世の展示物を見学して、市で刊行している中世城館跡に関する書籍を閲覧していて衝撃を受けた。
 5/11に歩いた金子十郎家忠館跡の想定位置が全く違う・・・(爆)。ネット地図あるあるですが、中世の館跡は正確な所在が不明瞭なことが多くて、違う位置に表示されていることも多くて・・・(笑)。
・入間市博物館紀要第1号
・入間市博物館紀要第12号
・板碑で読み解く武士と寺院
・木蓮寺村絵図 を購入して、研究だぁ!
 金子館跡は、瑞泉院跡の南側、赤城明神(現桂川神社)の南西に描かれています。

入間市博物館紀要第1号より

 木蓮寺村絵図でも金子館跡は、瑞泉院跡の南側、赤城明神(現桂川神社)の南西に描かれています。

木蓮寺村絵図より

 ネット地図では瑞泉院跡や桂川神社の北側に表示されています・・・違うじゃん(笑)そっちじゃない!

 金子館跡は、木蓮寺の字の下の + の辺りを中心にした台形平面の縄張りで、館跡を囲う道路は空堀跡なのではないかと思えてきました。では、現地に行ってみましょう。

 6/2、9:00頃にスカーレット号 (CT125 ハンターカブ)にて自宅を出発し、途中コンビニで絵図のコピーをとり、9:30頃に桂川神社に到着、まずはお参りいたします。

1190年に金子十郎家忠・畠山重忠、
1213年に金子十郎家忠の由緒あり!

 館跡外郭の北端付近かな?

 道路(堀跡)との比高差は見事で、館跡内郭の北端といってもいいように思える。

 北端から館跡の北東方向を巡る断崖は、当時としては比高差も十分(堀は更に深い)で、見ていて僕的には発見した嬉しさからか震えが来ましたよ・・・すげえ!

 館跡北東部、時代の流れで下部は玉石積となっていますが、上部は土の斜面となっています!

 館跡北東部をふり返って!鬱蒼と茂った土の斜面がイイネ(通りすがりの人の立場でですが・・・)!

 上の地図の十字のすぐ東、内郭を南北に突っ切る空堀跡か?

 上の地図の十字のすぐ北、内郭を東西に突っ切る空堀跡か?

 館跡の西側は、現況では館跡との比高差も少なく、堀は埋まって(現道路)しまったのかも知れません。

 ということで、金子十郎家忠館跡は、僕的にはここだ!と思っています。

 がしかし、市の刊行物によれば、他説もあるところが歴史の面白いところです。
 例えば、
・「答説」の館跡の絵図に土塁がない。
・現地に土塁などが確認できない。
・館に関係する小字の種類もわずか。
・板碑も中世陶器も出土していない。
・館というより櫓か砦規模。
・館跡とは今井城なのではないか。
 などなど、専門家が頭を悩ませているようです。

 城館跡巡りって、本当に面白いですね。箱付きのカブ系は城館跡巡りに相性ばっちりの機体といえるかも知れません。

小川太郎宗弘館跡🐾~小川城跡👀~高月城跡👀~勝沼城跡👀 ハンターリアショック交換試運転

5/26
箱を装着したスカーレット号 (CT125 ハンターカブ)は、積載時の後輪荷重が増した影響だと思うけど、カーブでフルバンクした状態のリアの挙動が不安定に感じられて、気持ちよく走りたいし(ヘタレだし・・・笑)、安全性向上の為にもリアショックを交換してみることにしました。
10:00頃、いつものPeaceS(あきる野市草花)さんへ。

お店に入荷したNEWリアショックアブソーバーを確認して、僕には整備の才能がありませんので(T.T)、いつものように交換作業をお願いしました。

代車のアドレスをお借りして、近所の史跡探検に向かうのであった。
ちょい古?のアドレスはまさに動く椅子(笑)といった感じで、交換されてるサスも硬めでバッチグーの乗り味っすね。

あえて古道っぽい奥の細道(笑)を南下して、
10:30頃、やってきました小川太郎宗弘館跡(あきる野市小川)へ。

跡地と表示されている場所は、林泉寺と駐車場になっていました。
ネットでググってみたら、林泉寺は西党小川太郎宗弘の居館跡という伝承があって、末裔には薩摩国で戦国時代に至るまで同地で栄えた一族もあったようです。

館跡があったとするならば、遺構は道路に囲まれた敷地形状のみなのかも知れません。
いま見ると、館跡とされる地点の鬼門(北西)方向の道の出っ張りが気になりますね。
(次回に行ってみよう)

館跡の南西の道向かいには、小さなお宮とお地蔵さんや五輪塔が並んでおりました。
(小川太郎宗弘一族と何か関係がありそうですが、あきる野市史等の公的資料で調べてみたいですね)

相当な古さのお地蔵さんだと思いますが、写真右端のお地蔵さん(後世に頭部を復刻?)の表情に親しみを感じてしまいました。

不審者に間違えられる前に(笑)、小川太郎宗弘館跡を後にします。

10:55頃、直線距離で300m程南にある小川城跡(宝清寺・あきる野市小川)を南方から望む。

同地点で向きを変え、更に直線距離で400m程南の秋川の対岸にある高月城跡(八王子市高月町)を北方から望みます。

ここで連絡が入ったので、お店に戻ります。

じゃ~ん、
11:10頃にリアショックアブソーバーの交換完了!

黒から赤へ、違和感が全くない(笑)。

選んだのは、純正カスタマイズパーツとしてHonda公式サイトにも掲載されている
SP武川・リアショックアブソーバー
CT125ハンターカブ用
スプリングプリロード:5段階調整
取り付け長:370mm
材質:【本体】スチール製
   【シリンダー】クロム メッキ
   【スプリング】レッド塗装
品番:0SS-ZN-06040149
   カラークロムメッキ/レッド
適用号機:JA65-1000001~

実は、JA55用としては廃番となっていて、JA65用を取り付けています。全く同じ商品なのか、違うのか、当方にはわかりませんが、ジャストフィットで装着出来ました。
取り付け長はノーマルと同じ370mmとされていますが、実際は1センチ程SP武川製の方が長く、足つき性は若干悪くなり、ライトの光軸が下がって微調整を要しますが、バンク角は若干増える方向ですので、僕的にはありがたいですね!

試運転を兼ねて寄り道(笑)、
12:40頃に勝沼城跡(青梅市東青梅)を望みます。

昔来たなぁ~、今日は遠くから見るだけ。今度は探索に来ますね。

13:30頃に奥多摩湖畔へ。

試運転で走った奥多摩路でしたが、スプリングは1番柔らかい設定で、それでも実にしっかりしていて、やっぱ違うな~とハッキリ実感出来るほど、走りは良くなりました。今までは2~3往復フワフワするところ(笑)を1往復+でフワっと収まって、違うマシンに乗っているように安定してフルバンクでカーブを回ることが出来る感じですね。履いているBSバトラックスも舗装路ではバッチグ~~~(古語)!

ライディング巧者の方は、フワフワのショックアブソーバーでも、ツルンツルンのタイヤでも、笑いながらガンガン行けるかも知れませんが、ヘタレ&ビビリなオイラは、マシンの性能に頼っておりやんす(カブですが・・・笑)。

帰途にお弁当屋さんに寄って、家族の遅い昼食を買って、箱詰め(笑)して帰宅しました(換気しないと後が臭い・・・バーガー系はもっと最悪です)。

中山家範館跡を歩く スカーレット号オイル交換

5/11 その4
 泉ヶ城跡から西進してきた スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) は、15:30頃に中山家範館跡(埼玉県飯能市中山)の西側にある智観寺の門前に到着しました。

 智観寺は中山氏代々の菩提寺とのことで、まず本堂にお参りの後、中山家範館跡に向かいます。
 上図の十字ポイントの左上の道が「状になっている部分に空堀の痕跡(下図の〇部)があり、覗き込んで思案していると突然近所の老紳士が登場し、有り難いことに詳しく現地と照らし合わせて解説してくださり、堀の範囲や子供の頃はまだ堀が残っていたことなど、楽しくお聞きすることが出来ました。僕はなんてラッキーなのでしょう!
 現地に案内板があったものの薄くなって判読不能でしたが、看板据付の同じ内容の紙をいただき、下図として添付し文面を転写させていただきました。

埼玉県指定旧跡 中山家範館跡
飯能市大字中山496番地2ほか
昭和38年8月27日指定
 中山家は武蔵七党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される仁治2・3年の板碑(1241・1242)がある。
 中山家範は後北条氏に従い、天正18(1590)八王子城で戦死している。
 この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの堀をめぐらしていた。この内堀は東西約60メートル、南北約90メートルで、外部は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、館は丹生堀と加治堀の水源に挟まれていた。また、西に智観寺、北西に丹生社、北に鎮守十二社が置かれていた。
 館の周辺には中山家に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武士団の長として活躍した。
 館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
平成8年3月 飯能市教育委員会

 上図の〇部を東向きに空堀を見る。

 上図の〇部の左にて南向きに空堀跡を見る。

 お寺さんの境内にある 中山信吉と智観寺 という解説板を読みました。
 中山家範は北条氏の八王子城を守って討死して武名を残したが、一族の中山信吉は徳川家康に取り立てられ、水戸藩の付家老となって活躍し、幕末まで代々の当主が夫妻で智観寺に葬られたとのことです(一部を除く)。

 凄いなぁ~と感銘を受けていると、幸運なことに突然に住職と思われる方から「お殿様のお墓はお参りされましたか?」とお話をいただき、「はい、お参りさせていただきました」とお話しさせていただきました。資料本を販売していないか問い合わせたところ、智観寺の歴史という冊子があるとのことで、客殿の受付で購入させていただきました。

 受付の横に素敵な絵が飾られていました。娘さんがお書きになった中山家の館想像図だそうで、「あくまでも資料にはならない想像図ですよ」とのことでしたが、絵本の挿絵になるような楽しい作品でしたもので、ご住職の許可を得て撮影させていただきました。

 館は消失し、主の命は尽きても、一族の営みは大成して続いたのだなぁ~と感銘を受けました。
 誰であっても連綿と遡れる先祖が必ずあり、激動の時代を潜り抜けて、今に繋がっているのは、あたり前のようでいて、実はとてつもなく凄いことなんですよね。などと思い付きましたが・・・(笑)。

 帰途につきます。

 たまたま通りかかった飯能市柳町の酒屋さんに寄って、地酒を求めたところ、一升瓶で出て参りました(四合瓶はないって・・・笑)!せっかくなんでプチプチを巻いてもらって購入しました(このお酒、たしか去年飲んだな~)。

 17:20頃にいつものバイクショップピース(あきる野市草花)に寄って、スカーレット号の1500km毎(myルール)のオイル交換をお願いしました。

 いい色のようで安心しました。

 17:50頃、帰宅しました。

 本日も、楽しい城跡めぐりツーリングでした!

泉ヶ城跡を見る

5/11 その3
 金子十郎家忠館跡から北進してきた スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) は、15:05頃に泉ヶ城跡(埼玉県飯能市青木)とされる辺りに現着しました。

 西方の八高線側からクネクネと主郭形態の名残りと思われる道を南側に沿って東に進み、上図十字ポイントの左側の東西方向に長い真新しい長屋門の前を通り、東側に回り込んで、南小畔川を渡った所に愛機を停めて、私有地につき城跡への立ち入りは出来ないので、北側の水路沿いを歩いてみました(市の境界標の川側)。

 上図十字ポイントの北側の南小畔川が湾曲する付近を西向きに見る。

 北側からの泉ヶ城跡遠景。
 鬱蒼と茂る竹林が、埋もれた歴史ロマンを感じさせます。

 『新編武蔵風土記稿』などの古文書によると、旧家青木氏の先祖青木式部大輔實近が居城していたとのことで、東西二町200m、南北一町半150mの城域で、平坦な地形に土塁が遺されていたと伝えられているようです。
 青木氏は鎌倉幕府に仕えていたが、正治元年(1199)に源頼家と安達景盛の戦いでは、同族の判乃氏らとともに安達氏側に味方し、判乃基兼が討死、丹党の武士団も多くの戦死者を出したが、滅亡せずに新田義貞の鎌倉攻めに青木五郎左衛門の名を残しているとのことで、今も末裔の方がお住まいとのことです。
 城跡の周辺には青木前、馬場、屋敷前などの小名が残され、西側等の一部に土塁が残されているようですので、機会があったら是非見学できればと思います。
 平安時代から戦国時代まで、地域領主の館として使われていたのではないかと想像すると、数え切れない人々の営みが伝わってくるようです。

 続いて、スカーレット号は西へ向かうのであった。

金子十郎家忠館跡を歩く

5/11 その2
 今井城跡から東進してきた スカーレット号 (CT125 ハンターカブ) は、13:55頃にファミリーマート入間木蓮子店で小休止。購入した冷たい飲み物と菓子パンでホッと一息。
 14:10頃に出発、裏道を北に進み、14:15頃に金子十郎家忠館跡(埼玉県入間市木蓮子)とされる辺りに現着しました。

 見事にひな壇上に造成された巨大な墓地が広がっておりました。

 館跡らしい痕跡も、金子氏一族の菩提寺の瑞泉院もなくなりましたが、供養塔や歴代住職の墓は残されていました。

 軒下の白い解説板によると、

 金子十郎家忠の墓
 家忠は保元の乱(1156年)や源頼朝の挙兵(1180年)などを中心に活躍した鎌倉初期の武将である。19才で保元の乱に出陣して敵の大将鎮西八郎の部下で鬼神といはれた高間三郎、四郎を討ち、その名を天下にひびかせた。
 治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵のときは畠山重忠とともに衣笠城を包囲して三浦大介義明を討破った。この戦で家忠は身体に21本の矢をうけたが、それにひるまず戦功を重ねた。また源義経に従って多くの戦巧をあげ、武蔵、伊豆、下総の地頭を歴任した。家忠が30才になった仁安3年(1168年)に社殿を造営して武運長久を祈ったが、これが白髭神社の始めだといわれている。
 保延4年(1138年)に生れ建保4年(1214年)2月17日にこの世を去っている。
 昭和43年3月
 入間市教育委員会 木蓮寺長寿会

 金子氏一族の宝篋印塔 付 位牌
 市指定史跡
 指定年月日 昭和47年10月20日
 この場所にはかつて瑞泉院(現・廃寺)があった。瑞泉院は武蔵七党の村山党に属し、平安時代末期の保元・平治の乱や源平の合戦で数々の武功を立てた、金子十郎家忠が開基したといわれ、代々金子氏一族の菩提寺であった。瑞泉院とは家忠の院号である。
 現在この場所には6基の宝篋印塔(供養塔)が立っている。いずれも、造立年代、造立者、供養を受けた人など不明であるが、塔の形式から、当地に徳川の支配が及び、金子氏一族が当地を離れた戦国時代末期または江戸時代前期に造立されたものと推定される。
 また、位牌には、銘文が上下2段に金泥で書かれている。上段中央に金子十郎家忠の印号法名、向かって右に家忠の弟である親範、三男高範、左に長男家広、嫡孫家繁と並び、下段には家忠の妹のほか高範を除く4人の夫人の法名が記されている。またそれぞれの名の右には没年、俗名、続柄が記されている。
 製作年代は不明であるが、形式からみて江戸時代のものと推定される。
 令和3年3月1日
 入間市教育委員会 入間市文化財保護審議委員会

 平安時代末頃から戦国時代の末頃まで、約400年以上もこの地で勢力を張っていた金子氏に感銘を受けました。

 金子氏発祥の地という案内板をどこかで見て、ふいに思い出したのが、高校1年生の頃に、金子さんというクールビューティーな女の子に告白してフラれたことです(爆)。そうか・・・一族の末裔にフラれていたのかも知れないね・・・(笑)。

 続いて、スカーレット号は北に向かうのであった。

(6/1、6/2 金子十郎家忠館跡を歩く②続編あり)