日奉氏館跡(日野市栄町・新町)

6/10
 昭島市中神町の立河氏館跡を出た後、15:00頃にマップに表記されている日野市栄町の日奉氏館跡に行ってみた。

 北辺に多摩川や谷地川が流れていていますが、平時の館としてはともかく、砦(城)としては・・・防御上はどうなんだろうなぁ~・・・本当かな・・・?

 東光寺成就院本堂・薬師堂さんにお参りいたします。

 おっ武田菱 人は石垣 人は城~♪

 案内板によると

 ということは、地図左側のT字路付近にもともとの薬師堂はあって、現在地に移築されたのでしょうか?

 鬼門の方角は北東なので、薬師堂が鬼門除けならば、館(城)は堂の南西の方角にあるのでは・・・?だとするなら上記地図の館の位置は違うのでは・・・どうなのかなぁ~?

 時間もないし、後日に再度訪れたいと思います。

 帰る途中、近くの七ツ塚古墳に寄ってみました。

 古墳が公園になっていて、小さな子供達が楽しそうに疾駆していました!
 これって、考古学的にはともかく(笑)、最高の墓地の利用法だなと思いました。
 死んだ人だって、生命力溢れるちびっ子が、上を走り回っているほうが、絶対に楽しいに決まってる。
 お爺ちゃんお婆ちゃんのお墓の上で、ドタバタ孫が走り回ったり、シートを広げて美味しいお弁当を食べたりしている光景って、きっと最高だな。
 ( ´艸`)

で、後日の7/1。

 T字路の辺りに鬼門除けの薬師堂があったとするなら、その南西の方角に館跡はあったのではないかと思い、行ってみましたその辺りに。

 北に多摩川、北~西を囲って谷地川、鬼門除けに上記薬師堂、多摩川段丘上に位置し、更に鬼門除けに神明社・・・というと、館跡は現在の東光寺西公園を含む一帯なのではないか・・・と、想像してみました。

(余談ですが、すぐ近くで木造の住宅を設計・監理したことがあり、不思議な縁を感じました)。

 新旭橋より東光寺西公園方向を見る。

 いかにも・・・って感じでしょう!
 緑地帯は断崖となっております。

 断崖上に広がる畑地帯、左の杜は神明社、森の低くなった辺りが東光寺西公園で、いかにもって感じがしますねぇ~。
 辺り一帯は残念ながら(城跡好きとしては)区画整理で街区が昔とは異なっていますが、新しい擁壁部分はともかく概ねの地盤のボリュームは引き継いでいる筈。

 案内板によると、でしょでしょ~。主要な道路が通ている断崖上の選地がポイントだと思う(個人的に)。

 神明社さんにお参りいたします。

 案内板によると

で終わるかと思いきや、

まだ候補地があるらしい・・・。

 谷地川が多摩川に合流する辺り・・・、日野宮神社の南側一帯説。

上記写真右側の現地案内板より

 ②の室町時代の刀はポイント高いのかな。

 日野市の名前の由来ともいわれる日野宮神社の一帯が、日奉氏の館跡という説がありますが、僕は日奉氏の平時の政庁の館が上記古地図の街道筋&渡河地点に近いこの辺りで、非常(戦闘)時の砦(城)が東光寺西公園一帯付近なのではないかと個人的には妄想しています(ざけんな~とか言わないでね・・・笑)。

 歴史学や郷土史の偉い先生方が研究されてもなかなか答えは導かれず、調べれば調べる程に謎の一端が解明されて更に謎が増える(笑)状況もあるのではと想像しますが、今後の解明に期待したいですし、僕も素人向けの文献を入手して謎を楽しみたいですね。

 『鎌倉殿の13人』の北条義時さんがよく出てきます(立河氏館跡でも)。
 日奉氏は立河氏を輩出した武蔵七党の西党の武士で、多くの地域豪族を輩出した名家とのことですが、多摩地域の小さな城跡を巡っていると、必ず武蔵七党、和田義盛の乱の加担や北条義時の粛清の話が出てきて、戦国時代以前に平安~鎌倉~室町時代に話が及びますね・・・というか、この辺りを学ばないと、小さな城跡は語れないというか。

 これも余談ですが、上記案内板文字の北条氏照さんは、戦国時代の関東に多くの影響を与えた武将さんですが、鎌倉幕府の北条氏とは別系統っていうのも有名な話ですが、関東を治めるには北条ブランドって大きかったんだろうなぁ~と思いました。
(北条早雲の本をただいま読んでるとこ)

 兵どもが夢の跡・・・小さな城跡って面白いですね。

立河氏館跡(昭島市中神町)

6/10、小さな城跡を検索していたら、昭島の中神町に立川照重館跡とある。
ちょっと気になるじゃないですか。
スカーレット号で行ってみましょう。
14:00頃に現着しました。

立川の砂川に育った僕は、多摩川での釣りや川遊びでよく自転車で通った中神坂(昔はもっと狭かったような・・・)の上のお寺さん(福厳寺)が館跡のようです。
へぇ~・・・ここがそうなんだ。
子供の頃は全く館跡なんて思いもせず、意外さや懐かしさとともに、何気なく通り過ぎていた身近な街並みにも、激動の歴史が埋もれているのだなぁ~と感慨深いものがあります。

中神坂交差点より館跡(福厳寺)を見る。

これも立派な玉石積ですね。
左右で石の大きさが違うのが興味深い。
施工年度が違うのか工事人が違うのか。

館跡の南側には防空壕の跡があります。
こういう部分にも歴史が残っています。

福厳寺さん本堂に参拝してから境内散策。
土塁や空堀などの遺構は不明でした。

案内板は文字が薄くて判読し難いです。

手持ちの資料の昭島の歴史によると

P79>
 『新編武蔵風土寄稿』には、福厳寺の項で「(福厳寺は)村の伝承によると、天正(1573~92)以前、立河宮内少輔一族の館があったところである」としています。確かに福厳寺は、普済寺の末寺になっています。
 また寺には『福厳寺境内及び除地絵図』(明治4年)があります。これには、かつて居館であったことを推測させる、土塁が描かれています。

P69>立河氏
 武蔵七党の、西党日奉氏の一流。宗恒の代から立河氏を称したという。
 鎌倉時代、現在の立川辺りの地頭であった。1213(建保元)年、和田義盛の乱で、西党21家が加担し、北条義時に滅ぼされた中で、平山氏と共に北条氏に味方し、その後も生き残った。
 室町時代は、土淵郷(現日野市)の地頭を兼ね、文和年間(1352~56)現在の柴崎町に普済寺を建てた記録がある。現在土塁が残るが、館との関係ははっきりしていない。
 柴崎八幡宮(現、諏訪神社に合祀)の本地仏阿弥陀如来に、天正14年(1586)年の背銘が残っており、立川照重の名がみえる。
 1590(天正18)年、北条氏の滅亡と共に、滅びたとされる。

とのことでした。

臨済宗建長寺派寺院名鑑によると

P74>智勝山 福厳寺
開基萬松和尚が夢窓国師を開山に観請して創建(1624)。寺域は往時武蔵七党一派の立川宮内少輔一族が居館した跡という。

とのことでした。

多摩川沿いの断崖沿いには多くの城館跡が点在していますが、断崖は湧き水が豊富で当時の農業には必須で、そこを抑える為と地形を生かした防御上の利点も高かったのでしょう。

兵どもが夢の跡・・・何を想いますか。

小菅城跡(山梨県小菅村)

5/28(日)、
11時45分頃に自宅を出発、
奥多摩湖畔で小休止して小菅村へ。

道中、懐かしい かどや旅館さん前にて。

13時30分頃に小菅城下に到着。
スカーレット号の駐機場所を探すと、
箭弓(やぎゅう)神社脇に場所があり。

有難いことに小菅城の案内板があり、
遺構の様子がわかるようになっています。
上の地図と比べると、
東西方向に新しい道が一本走っています。

まずは箭弓神社に参拝してから城内へ。

入口は神社北側に整備されています。
(少し風化で荒れていますが)
西斜面の山道を登ると、
自然地形を利用した小さな山城(砦)の
全容が徐々に伝わってくるようです。

図の一番西寄りの堀切。

図の中央左寄りの大きな堀切。

図の中央の堀切。右の斜面上が主曲輪。

北側帯状腰曲輪。右の斜面上が主曲輪。

東側帯状腰曲輪。左の斜面上が主曲輪。

南側帯状腰曲輪を登ると斜面上が主曲輪。
戦国時代当時は、斜面は急で堀切は深く、
上は板塀等で囲われ下は隠れ場所もなく、
上から準備された矢や石礫が降り注ぎ、
近づく敵には槍がエイヤと突き出され、
簡単に登れる場所ではあり得ず・・・。
僕なんか秒殺でしょうな ( ´艸`) 。

主曲輪には小さな祠が祭られていました。
参拝してから小さな山城で小休止です。

いつもの言わせて、「兵どもが夢の跡」。

破壊カ所から下って虎口を見下ろす。

虎口下より御屋敷跡の小学校を見下ろす。
城を南に出た所にも案内板がありました。

本来のお城の出入口はこちら方面でした。
(勝手口から入ったのが σ(゚∀゚ )オレ )
知らんかった_(_^_)_反省・・・。

小さな山城(砦)は全国に無数にあって、
多くが忘却の彼方に去ろうとしています。
小菅城跡の遺構は、有志の活動と研究で、
わかりやすく実に素晴らしい城跡でした。

復路、道の駅たばやまで小休止。
売店でこの地域の狼の絵本を買いました。

作 :寺崎美紅
絵 :玉川麻衣
発行:2022/1
出版:たばやま観光推進機構

読むのが楽しみな狼伝承の絵本です。

戸吹城跡(二条城址)

5/3
左入城址を後にして、戸吹城跡に向かう。
別名は二条城・根小屋城とも言われます。

八王子市側より、案内板に誘導され、
16:10頃に現着。
やはりというか駐車スペースはなし。
( ´艸`) 昔来た時もそうだった~。
他人様の家の前に置くわけにもいかず、
小川の橋の上に置かせていただきました。
_(_^_)_
せいぜい3機が限界でしょうか。
(車は置く場所が見当たらず)

裏庭の通路のような散策路を歩いてゆく。

地図下側の建設会社から北に歩き、
そこからすぐに城域に入ります。

山歩きに不慣れな私のような人は、
特に単独ではあきる野・八王子市境まで。
(地図上の点線まで)
その北側は45度~80度の断崖で、
比高差は70mぐらいはあります。
北曲輪に繋がる尾根は崩落しており、
散策で行くのは極めて危険で無謀です。

北曲輪は北に向かう四本の尾根の付根で、
そこから南に逆T字形の縄張のようです。

東京都教育委員会の『東京都の中世城館』
という本によると、
西へ向かう市境の散策路は古道で、
この古道に対応して築かれたようです。
(縄張図は本に出てるけど転載禁止で
 ざっくり航空写真のとおりですね)
自然の地形を巧みに利用しつつ、
幾本もの土塁や空堀で防御されています。
築城時期は武田軍が侵攻した永禄12年
(1569)頃との説があるようです。
少数の守備兵で敵を抑える目的の城で、
ごく短期間の使用であったようです。

城跡中枢へ向かう一本道。

尾根南側の掘平地。

案内板は地図上の二条城表記の辺りです。

小さなお宮が祭られています。

お宮裏は土塁です。

土塁の北側はV字の空堀で、

その向こうは断崖絶壁です。

遠くにあきる野の街並みが望めます。

木々の向こうの斜面は80度はあるよ~。
その上の細尾根は北曲輪に繋がっている。
落ちたら・・・誰も通らない・・・。

あきる野側に移動します。

サマーランドの駐車場から城跡を望む。
北曲輪の尾根の形状がわかります。

秋川の北側より戸吹城跡の全景を望む。

戸吹のジモティーの人々は、
北条さんの厳しい命令で、
築城に総動員されたんだろうなぁ~。
でもって武田の来襲に備えて、
その後の上杉・前田来襲はどうだったか。
民百姓は辛いよね。

乱世で生きるのは大変だ・・・。

ふとそんなことを想いながら・・・。

左入城址

5/3
昭島の用事が済んでコンビニ休憩。
コーラを飲みながら城跡を検索してみる。
場所柄、滝山城跡関連がほとんどだけど、
左入城址の書き込みが目に入りました。
ムラウチのところに城跡が・・・?
行ってみるか・・・ということで、
15:40頃に現着です。

書き込み通りに立派な石碑があります。
この場所に左入城があったのですね。
当時と今では道が全く違っています。
道の芯には旧道があると思いますが、
幅が城跡を飲み込むばかりに広がって、
高速道路のインターや敷地の掘平で、
異次元のスケールで造成されています。
地山の基本的な山塊は残っているわけで、
旧道、河川、集落、旧地名、伝承、
自然地形他からの想像はロマンありです。
小さなお城の歴史は謎に包まれており、
築城者、主の変換、合戦の記憶、廃城、
現城主の村内氏の創業(築城)を経て、
左入城は生きていると思いました。

黒御影の立派な石碑(高いゾ~)です。
ピカピカで反射しちゃって読みにくい。
(従業員が拭いているんだろうな)
サトちゃんやニトリや俺も写ってるし。
下に碑文を転写しました。

左入城跡
往古この地に左入城があった
中丸淡路守の居城であったと伝えられている
左入城は東西約四百m、南北百七十五mの卵形をなし、東南及び西に幅四〜五十m、深さ約九mの空堀を巡らして、周囲は凡そ二千mに及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられてきた
また、これより西方五百mの所に淡路守居城の折、調馬の用に供した馬場の址がある
尚、近年発見された、伊能忠敬の日本地図にも この地を「左入村中丸」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明記されている
右の史実を後世に伝えるために、この碑を建てる
平成十七年五月
 村内家第十七代当主 村内道昌

この石碑のおかげで、
こういう城跡もありだな・・・と思える。
ムラウチは現代の戦の城ともいえるかな。
なんて、ハイボールを飲みながら・・・!

柏原城跡(上杉砦跡)

4/29、大宮方面へ赴く。
帰路の山並みに城跡の気配を感じた。
集落の統治や防衛拠点に絶好の山容かな。
一寸コンビニ休憩で、付近の城跡を検索、
ビンゴ、やはり近くに城跡があるようだ。
せっかくなので、立ち寄ってみようか。
この行き当たりばったり感が俺なのだ。
スマホの検索地点をナビに登録して、
郊外の住宅街の裏山を目指します。
ほどなく現着、15時頃っす。

駐車場は付近に見当たらず・・・、
仕方なく往時の水堀跡?の水路の橋上に、
スカーレット号を駐機しちゃいます。

上図の下側から登ってゆきます。

二ノ郭と本郭の間の空堀を進む。
昔は深くて急で高い土塁だったでしょう。
小さいけど、素晴らしい空堀ですね。
突き当りを右へ、本郭を散策しました。

甲冑を着た武将たちがここに居たんだね。
夢中で生き夢半ばで討ち果てた人の痕跡。
郭の掘平地や土塁を見ていると感じるね。
よく今に残っているものだと感心します。
城とは、土で成るものですね。

二ノ郭には稲荷社が祭られていました。
お参りさせていただきました。
小さな城跡は気軽に行けるのがいい。

小さな城跡の全景・・・。
今は鬱蒼として木々が生い茂ってるけど、
いつも思うけど、 兵どもが夢の跡、
人が生き死にを賭けて戦った場所。
城跡は貴重な文化財で、観光資源ですが、
当時は関係者以外は立ち入り不可の、
最高機密の防衛拠点だったんだよね~。

ふらっと僕みたいのが探索できるなんて、
いい時代になったものだ。
城跡で月夜に琵琶でも弾けたら風流だな。
・・・怖いか・・・( ^ω^)・・・。

観音様ツーリング~柚木城跡

4/1
武相卯年観音開扉めぐりカブミーティングが4/9に開催されますが、そのスタッフを務められている やまおじさん の呼びかけで、ミーティングの前に親睦を深めつつ観音様をカブで巡りましょう!ということになり、本日に観音様御開扉ツーリングが開催されることになりました!

朝一番にスカーレット号(HONDA CT125 ハンターカブ)にナビを装着して、8時過ぎに自宅を出発、途中で給油して、コンビニで朝食を買って、集合場所の道の駅 八王子・滝山に8時35分頃に到着しました。
集合時間は9時でしたが、予想以上に多くのカブ主が集まっていました。

ほぼ?(笑)予定通りに9時30分頃に出発。
やまおじさんの先導で13機のカブが八王子市内の桜並木を巡ってゆきます。

先頭がやまおじ機、次は私Ver.34機でした。

本日最初の観音様として、八王子市初沢町の高乗寺に到着。
思い思いのカブが並びます。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

11時20分頃、本日二番目の観音様として、松姫様で有名な八王子市台町の信松院に到着。

なかなかモダンで美しい寺院ですな。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

12時30分頃、昼食を町田市相原町のうどん屋開戸でいただきます。

席が空くまで暫く待ちます。

僕のうどんが来ました。美味しい!
あっ天ぷら食べちゃった後の写真です。

14時頃、本日三番目の観音様として、町田市相原町の清水寺に到着。

龍の彫り物が超絶に見事でした。
これを彫れる職人はもういないでしょう。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

14時35分頃、下柚木のセブンで休憩。

喉が渇いていたところでした!

15時頃、本日四番目の観音様として、八王子市下柚木の永林寺に到着。ここは高月城や滝山城で有名な多摩の太守であった大石定久公の支城であった柚木城跡に造営されたお寺とのことで、鎌倉と見紛う程に趣のある立派なお寺でした。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

歩くVer.34。(元画像:珍品堂通信より)

門前で集合写真。(元画像:珍品堂通信より)

ここで本日の観音様ツーリングは散会となりました。
参加の皆さん、一緒に走っていただきまして、ありがとうございました。

で(笑)、二次会って感じで、やまおじさんの先導で、ゼロさん・私Ver.34の3機で、15時45分頃に本日五番目の観音様として、八王子市越野の玉泉寺に到着しました。

参拝してから御朱印をいただきます。
ありがたや~。

・・・ここで、私Ver.34は、副業による慢性的な睡眠不足の影響で(カッコワル~)、睡魔でスイマセンな状況となり、体内カラータイマーがピーコピーコ鳴り出しました・・・。
疲れが顔に出ていたと思います・・・Ver.34はこれにて帰還することにしました。
_(_^_)_

やまおじさん、本日のツーリングの呼びかけや先導、ありがとうございました。
クロスカブのコーディネートは最高でした。

ゼロさんの、しれっとチューンドカブは興味深かったです!

16時45分頃に無事帰宅しました。
とても楽しいアットホームなツーリングでした。

有馬~大麦代~周遊 辛垣城跡下鎧塚

1/21 スカーレット号 CT125 ハンターカブ
12:15頃にフラっと家を出て、
奥多摩&成木街道、青梅秩父線と疾駆~!

12:55頃に有馬ダムに到着。
頭が肌寒いけど(坊主にしてハゲ隠し)、
( ´艸`) バンダナ~ カブる
気持ちのいい空模様だねぇ~。
寒いし、バイクは数台・・・カブ系皆無。

キャリアにピリオンシートを乗せてみた。
(タンデムの予定はないけどね)
先日の宮ケ瀬のカブミーティングで、
「まずは箱でしょ」のコメントあり~で、
でも気に入った箱、ん~見つからなくて、
床の間の置物じゃないけど、
密かに(笑)用意のシートを積んでみた!

13:10頃に出発、青梅秩父線を戻り、
松の木通り、下畑軍畑線を疾駆します。
JR青梅線の色鮮やかな赤い奥澤橋梁を、
しばし見上げてしまいました。

奥澤橋梁の竣工は1929年(昭和4年)
とのことで、希少なトレッスル橋らしい。

その少し南側には、

戦国時代にこの地域一帯の領主であった
三田氏VS北条氏の戦いで散った武者や
武具を供養したと伝わる鎧塚があります。
現地案内板によると、

道端の祠に両手を合わせました。

余談ですが、
まだ独身の30年近く前に、後に嫁さんとなる彼女と、城跡巡りハイキングで上記の辛垣城跡を含む三田氏の城跡を散策したよ~。
今じゃあり得ないけど、よくもまぁオイラに付き合って来てくれたもんだと、感慨深いものがある(笑)。
だって城跡に全く興味のない人から、そんなもんに延々と付き合わされるのって、退屈の極みですもんね・・・「見て見て、これ土塁だよ・・・すげ~堀切だ・・・ってえと曲輪はこんな感じ?・・・」などと妙に盛り上がってるオイラに天使のように微笑んでくれている彼女・・・そんなもん只の盛土と溝と平地じゃんね(爆)。
そういえば、新婚旅行は沖縄の城跡を巡りましたなぁ~・・・親しい友人にその話をすると「奥さん可哀そうに・・・」と言われたり、燃える前の首里城に行ったとき「初めてまともなお城に来たね」って、言われたのを思い出しました。

さてさて、青梅街道を疾駆して、
14:05頃に奥多摩の大麦代Pに到着。
めっちゃ日陰は寒い~・・・たった3機。

いつものアメリカンドックいただきます。
しかしコレの何がアメリカンなんだろう。

14:20に寒いから出発。
よせばいいのに奥多摩周遊超え・・・、
更にメッチャ さ ぶ い ~ 。
道端には残雪アリ、凍りぎみのカーブで、
ちょいリアが滑ってドキっとしました~。
下り坂は、寒さとビビリでゆっくり巡航。
後方から四駆のスポーティーカーが来た!
道を譲ったらハザードでサンキューって。

14:45頃に都民の森Pに寄るも、
寒くて休んでいられなくて ( ´艸`) 、
5分後に出発。

周遊を下る自転車のロードバイクは凄い。
ちょうど仲良しカップルが、
軽く 口論 しながら走っていて、
(あの時はお腹が空いていたとか)
なんか微笑ましい光景でしたよ。
自転車は結構な車速で下っていたので、
直線で一気、左手で礼をして抜きました。

16:05頃にいつもの理髪店に到着。
顔が寒くて真っ赤になってる~。
寒いんだけど、いつもの0.8ミリ刈り。
( ´艸`) ナハハ 。

今回は、
ハンドルカバーの防寒性を確認しました。
割と薄地の手袋でも問題なく走れました。
春になるまでカバーはもう外せませんね。

宮寺氏館跡

12/10

朝イチで母の住まいに向かい、母の車(ワゴンR)を預かって、入間市寺竹のミツミタイヤさんで、ホイル込みでスタッドレスタイヤに交換してもらいました。

165/55 R15 を、

155/65 R14 へ インチダウン。
BLIZZAK VRX2 にしときました。

せっかく入間に来たんだし(笑)、さて、近くに城跡はないかなぁと検索。
なぬ?・・・宮寺氏館跡ですと・・・。
よし、ちょっと行ってみようか!

10:40頃、着いた。
お寺さんをひと回りして駐車場所を探す。
法事をやってるっぽかったので、公園前にちょい置かせていただきました。

宮寺氏館跡(入間市宮寺)

現在は西勝院というお寺さんで、宮寺氏の菩提寺とのことです。

入間市HPより宮寺氏館跡実測図を転載。

入間市HPより宮寺氏館跡解説文を転載
市指定文化財(史跡・昭和59年7月25日)
 宮寺氏は、武蔵七党のひとつ村山党(平姓)の武士で、村山頼家の二男家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって居館を構え、宮寺氏を称したとされる。その後、鎌倉幕府滅亡時には加納下野守(しもつけのかみ)が、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたといわれ、現在は西勝院(さいしょういん)の境内地となっている。
 外郭約130m四方で、内郭の堀跡・土塁の一部が残存している。土塁の外側に沿って、狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていた。周辺には「城ノ腰(しろのこし)」・「城東(しろひがし)」・「的場(まとば)」・「的場後(まとばうしろ)」という小字があり、館に関係のある地名と考えられる。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が出土している。

とのことで、この館の主は、
宮寺氏(平安末・1100年代末)
加納下野守(~鎌倉末・1330年代)
〇〇氏(南北朝・1330年代~)
〇〇氏(~戦国時代・1500年代末)
〇〇氏(~安土桃山・1600年代初頭)
狩尾氏(江戸時代~・1600年代初頭)
伊濃氏(~江戸時代・1600年代初頭)
の居館であったということかな?
範囲は4~500年の期間ですから、数え切れない人達が関わっていて、想像すると気が遠くなりますが、館を巡る人生の攻防は興味深いです。

館の主の移り変わりを7行で書いたけど、数十年の人生でもいろいろあるのに、数百年でこれっぽっちの記録など、何もわかっていないのと同じで、記録に残っていない人々の営みの痕跡が、土で成る城に残っているように思います。

本堂前にてお参りさせていただいた後に、遺構の中央土塁を見学します・・・凄い。
今はなだらかになっていても、無言の存在感がある。
往時の土塁はもっと高く、空堀は深く、険しかったものと推察いたします。

現地解説板より

館南西部の半壊した土塁も残っています。

館西側の水堀は、現在の水路とのことで、往時は水堀内側(右側)に土塁があったと考えられているようです。

館跡北東部の別の案内板より
史跡宮寺館跡
 桓武天皇九代の孫 平頼任は、今からおよそ九百年前、村山に住んで武蔵七党の一つである村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心にひろがって大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府の成立に大きな力となったことは、広く知られているところである。
 村山(平)頼任の子 頼家に四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名のり、三男家範は入間市の金子に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして、二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称して、この地に居館を構えたのである。
 源頼朝、同義経の家来で、源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が、当時の史書に見えるから、十郎家忠らとともに活躍したのであろう。
 すでに八百年以上も昔のことであるから、この居館跡の全体の姿を知ることはむずかしいが、西勝院境内の東部に残る長さ約三十メートル、高さ約二メートルの土塁と空堀は明らかに当時の遺構の一部で、さらにその土塁のつづきは、昭和二十七年ころまで、北隣の荻野家の屋敷の北側約百二十メートルにわたってのこっていたのである。
 元弘三年(西暦一三三三)に鎌倉幕府が滅びたころには、加納下野守なるものがここにいたと伝えられ、江戸時代から狩尾氏、のちに伊濃氏(猪尾、井野尾、伊野尾とも書いた)がいたが、この間のくわしい事情はよくわからない。
 以上宮寺館跡の概略を記して見学者の参考に資するものである。
  昭和五八年九月十九日
   入間市教育委員会
   宮寺郷土を知る会
   入間市文化財研究同好会

とのことです。
こりゃぁ・・・親と四兄弟の居城を巡るようだね(笑)。
こうして、偶然訪れた城跡から、広がってゆくんだよね!
僕の城跡好きは、小学生の頃に釣りの帰りに友人と迷い込んだ(笑)滝山城跡に始まります。その子ども時代の興奮が今も一緒なんだよね・・・進歩してないっす。
( ´艸`) 子供オジサンですから・・・。

13:50頃に帰宅。
自宅と母の住まいとの往復は、弦月号(Kawasaki KSR110)で、快走いたしました。
子供オジサンの愛機ですよ!
来週は、オイル交換と自賠責の更新です。

大石氏館跡/立川氏館跡

11/28
PorcoRosso号(DAHON K3)で出撃!
久しぶりの自転車で、ダイジョブかな?
今日はバイクより自転車の方がいい。

13:00 大石氏館跡(羽村市羽東3丁目)があったとされる付近に到着。

大石氏は、信濃国の大石郷発祥の氏族とのことで、1351年の笛吹峠の合戦の戦功などで1356年頃に入間や多摩に領地を得て、多摩に移住し各地に城や館を造り、一大勢力を築いた氏族のようです。
一番有名な大石さんといえば赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)ですが、遠い親戚になるようです。

設置されている案内板より。

館跡は、江戸時代の玉川上水の掘削、大正時代の取水工事(羽村-山口軽便鉄道含む)、奥多摩街道の拡張、羽村大橋の架橋工事や擁壁工事等で、旧状を留めていません。
館の選地として、案内板にあるように、鎌倉街道の多摩川渡河地点を抑えつつ、眺望もよく断崖に面した防御性のある当地が選ばれたのだろうと想像します。
今も、奥多摩街道、羽村大橋、多摩川、玉川上水、多摩湖への導水路が交錯する要衝です。

案内板の薄い黄色っぽい線が旧鎌倉街道とのことで、羽村東小を南北に突っ切り、奥多摩街道のS字の東側を沿って羽村大橋北端の西側を下り(遠江坂)、玉川上水を突っ切り、現住宅街を抜けて裏道のT字路を斜めに突っ切り、多摩川を渡っていたようです。

大石氏の館があった位置・・・北は東小を含み、南は段丘上端、西は旧鎌倉街道、東は羽村大橋の延長付近辺りかなぁ・・・狭いかなぁ・・・などと、案内板や空から見た写真を見つつ、妄想してみます。
ほらほら・・・じ~っと見てると、土塁や空堀や虎口が見えてくるでしょう。
( ´艸`)

付近の小さな神社の案内板です。

東小プール南より、旧鎌倉街道が下ったと想像する川崎西公園の斜面を、奥多摩街道S字カーブ方向へと見る(真南向き)。
この左側に館跡があったのではと妄想・・・。

旧鎌倉街道が下る川崎西公園の斜面を西側から見る。
道は奥多摩街道のS字カーブ。
この斜面の向こう側に館跡があったのではと・・・。

有力な古文書や地下遺構でも出てこない限り、特定は難しいでしょうね。

多摩サイを下りま~す。えっほ、えっほ、
なかなかのサイクリング日和ですよ~。

対岸の山並み・・・高月城跡を望む。

対岸の山並み・・・滝山城跡を望む。
逆光で眩しいけど、空模様はダイナミックでキレイだなぁ!
神降臨って感じだね・・・お天道様には叶いませんや。
近いうち、滝山&高月城跡、久しぶりに探訪したいと思います。

15:30 立川氏館跡(立川市柴崎町4丁目)に到着。

館跡に建つ普済寺のHPを見たら、普済寺は立川氏の庇護のもと1353年に館の一角に開山し隆盛を極めたが、1430年頃に立川氏の没落とともに寺は荒廃、1500年代に入り高幡城主の庇護のもと寺は面目を一新したがその後に衰退し、1550年代に立川氏が再び勢力を挽回して大檀那(失地回復・館の主に大復活)となったが、1590年の豊臣軍の攻撃で焼失(落城)したとのこと・・・山あり谷あり、戦国の世ですね。

案内板より

ざっくり館の範囲は、西はJR中央線、南は残堀川、東と北は写真の端ぐらいかなぁ。

別の案内板によると

立川氏館跡(都旧跡)⇒(都史跡)
立川を治めていた豪族・立川氏の館がこの普済寺のある場所にあったと伝えられている。立川氏は、武蔵七党系図によると、西党に属し、鎌倉時代には、幕府に仕え、戦国時代には、関東を制した後北条氏に仕えた。その後、天正十八年(一五九〇)北条氏照の居城である八王子城落城によって、立川氏は浪人となった。後になり、水戸藩士として水戸に移住した。現在でも、当寺の本堂前と裏側墓所に三十六メートル程の土塁が残っている。

首塚
立川宮内少輔宗恒の首塚といわれているが、これについては、江戸時代から二つの説がある。一つは『武蔵名勝図絵』の、宗恒の墓を後になってここに移したものであるとする説。もう一つは『江戸名所図会』の、立川合戦の戦死者の首塚で、宗恒の墓所は不明であるとするものである。
その後、明治十四年にここから六十余枚の板碑が発掘された。
現在、首塚の上には、星梅鉢紋の石板が一枚立っているが、立川氏の墓の石扉の二枚の内の一枚とみられる。

残存遺構の土塁の一部。

残存遺構の土塁の一部。

残堀川の遊歩道から館跡の崖を見る。

対岸より館跡の崖を見る。
当時は天然の崖だけど、凄い落差だよね。

※(おまけ)電車より館跡の崖を見る。

前記空中写真の上部緑地にある土塁の一部といわれている盛土。
貴重な遺構を大切に残してほしいと願います。

16:15 薄暗くなった頃、お腹が空いてきました。
立川市富士見町の奥多摩街道沿いのふじみ食堂。
一度来てみたかったんだよね。

レバニラ炒め定食、ご馳走様でした。

17:55 帰宅。
久しぶりの自転車、お疲れで~す。
少し身体は冷えちゃったけど楽しかった!