誰かのZX-6R

9/23

14:55、青梅のカインズホームへ、
ゴム製のワッシャーを買いに行ったら、
駐機スペースにZX-6R?が・・・
めっちゃカッコイイ---!

もしもオイラが乗ったら、
30分経たないうちに腰痛になりそうな
ライディングポジションですが、
_| ̄|○
見ているだけで痺れますなぁ~。

子供の教育ローンが終わったら、
乗ってみてぇ~。
せめてそう思うことは、
大事っすよね~(笑)!

長渕の館跡

9/18
約束の時間まで少し間があったので、

12:10、青梅市長渕にある三田氏の館跡といわれる場所に行ってみました。

三田氏は戦国時代まで青梅一帯を支配していた名族で、青梅の各地に城跡が残っており、その一つがこの館跡です。

名族の末裔なのか、地域の名士として名を残しておられるようですね。

前を通りましたら、古い墓石に三田氏の名が見えました。
むろん私有地につき立入不可ですよ!

多摩川沿いの北斜面は、左が多摩川、右が館跡の立地で、更に右に行くと丘陵が続き、館跡の西側には沢が流れ、戦国時代に地域を支配する館を構えるには適地なのではと思えました。

約束の時間が来たので、三田氏の館跡を後にします。

羽村某所のコンビニにて、暑すぎて日陰で小休止。

スカーレット号で散走

9/17

11:45、いつもの散走🐾で奥多摩湖畔へ。
バイク日和のいい天気だぁ~。

これまたいつもの アメリカンドック 。
大麦代Pに寄ったら絶対食べる定番です。
(何でアメリカンドックというのだろう)
嗚呼、大盛り焼そばも懐かしいんだけど。

12:55、帰路に へそまん を買ってみる。
一応、奥方様への お土産 です。
(*´σー`)エヘヘ

ハンター&KSR オイル交換

スカーレット号(CT125 ハンターカブ)と、
弦月号(KSR110) の、
オイル交換をしてきました。

スカーレット号は

1500km毎のサイクルで(前回4月)

弦月号は

あまり走ってないけど8カ月経過にての

オイル交換です。

ともに、まだまだいけるオイルでしたが
お願いしますと交換してもらいました。

すいません、雑記帳なもんで、
自分で後で確認する目的もあり、
つまらないネタでゴメン。
_(_^_)_

日奉氏館跡(日野市栄町・新町)

6/10
 昭島市中神町の立河氏館跡を出た後、15:00頃にマップに表記されている日野市栄町の日奉氏館跡に行ってみた。

 北辺に多摩川や谷地川が流れていていますが、平時の館としてはともかく、砦(城)としては・・・防御上はどうなんだろうなぁ~・・・本当かな・・・?

 東光寺成就院本堂・薬師堂さんにお参りいたします。

 おっ武田菱 人は石垣 人は城~♪

 案内板によると

 ということは、地図左側のT字路付近にもともとの薬師堂はあって、現在地に移築されたのでしょうか?

 鬼門の方角は北東なので、薬師堂が鬼門除けならば、館(城)は堂の南西の方角にあるのでは・・・?だとするなら上記地図の館の位置は違うのでは・・・どうなのかなぁ~?

 時間もないし、後日に再度訪れたいと思います。

 帰る途中、近くの七ツ塚古墳に寄ってみました。

 古墳が公園になっていて、小さな子供達が楽しそうに疾駆していました!
 これって、考古学的にはともかく(笑)、最高の墓地の利用法だなと思いました。
 死んだ人だって、生命力溢れるちびっ子が、上を走り回っているほうが、絶対に楽しいに決まってる。
 お爺ちゃんお婆ちゃんのお墓の上で、ドタバタ孫が走り回ったり、シートを広げて美味しいお弁当を食べたりしている光景って、きっと最高だな。
 ( ´艸`)

で、後日の7/1。

 T字路の辺りに鬼門除けの薬師堂があったとするなら、その南西の方角に館跡はあったのではないかと思い、行ってみましたその辺りに。

 北に多摩川、北~西を囲って谷地川、鬼門除けに上記薬師堂、多摩川段丘上に位置し、更に鬼門除けに神明社・・・というと、館跡は現在の東光寺西公園を含む一帯なのではないか・・・と、想像してみました。

(余談ですが、すぐ近くで木造の住宅を設計・監理したことがあり、不思議な縁を感じました)。

 新旭橋より東光寺西公園方向を見る。

 いかにも・・・って感じでしょう!
 緑地帯は断崖となっております。

 断崖上に広がる畑地帯、左の杜は神明社、森の低くなった辺りが東光寺西公園で、いかにもって感じがしますねぇ~。
 辺り一帯は残念ながら(城跡好きとしては)区画整理で街区が昔とは異なっていますが、新しい擁壁部分はともかく概ねの地盤のボリュームは引き継いでいる筈。

 案内板によると、でしょでしょ~。主要な道路が通ている断崖上の選地がポイントだと思う(個人的に)。

 神明社さんにお参りいたします。

 案内板によると

で終わるかと思いきや、

まだ候補地があるらしい・・・。

 谷地川が多摩川に合流する辺り・・・、日野宮神社の南側一帯説。

上記写真右側の現地案内板より

 ②の室町時代の刀はポイント高いのかな。

 日野市の名前の由来ともいわれる日野宮神社の一帯が、日奉氏の館跡という説がありますが、僕は日奉氏の平時の政庁の館が上記古地図の街道筋&渡河地点に近いこの辺りで、非常(戦闘)時の砦(城)が東光寺西公園一帯付近なのではないかと個人的には妄想しています(ざけんな~とか言わないでね・・・笑)。

 歴史学や郷土史の偉い先生方が研究されてもなかなか答えは導かれず、調べれば調べる程に謎の一端が解明されて更に謎が増える(笑)状況もあるのではと想像しますが、今後の解明に期待したいですし、僕も素人向けの文献を入手して謎を楽しみたいですね。

 『鎌倉殿の13人』の北条義時さんがよく出てきます(立河氏館跡でも)。
 日奉氏は立河氏を輩出した武蔵七党の西党の武士で、多くの地域豪族を輩出した名家とのことですが、多摩地域の小さな城跡を巡っていると、必ず武蔵七党、和田義盛の乱の加担や北条義時の粛清の話が出てきて、戦国時代以前に平安~鎌倉~室町時代に話が及びますね・・・というか、この辺りを学ばないと、小さな城跡は語れないというか。

 これも余談ですが、上記案内板文字の北条氏照さんは、戦国時代の関東に多くの影響を与えた武将さんですが、鎌倉幕府の北条氏とは別系統っていうのも有名な話ですが、関東を治めるには北条ブランドって大きかったんだろうなぁ~と思いました。
(北条早雲の本をただいま読んでるとこ)

 兵どもが夢の跡・・・小さな城跡って面白いですね。

立河氏館跡(昭島市中神町)

6/10、小さな城跡を検索していたら、昭島の中神町に立川照重館跡とある。
ちょっと気になるじゃないですか。
スカーレット号で行ってみましょう。
14:00頃に現着しました。

立川の砂川に育った僕は、多摩川での釣りや川遊びでよく自転車で通った中神坂(昔はもっと狭かったような・・・)の上のお寺さん(福厳寺)が館跡のようです。
へぇ~・・・ここがそうなんだ。
子供の頃は全く館跡なんて思いもせず、意外さや懐かしさとともに、何気なく通り過ぎていた身近な街並みにも、激動の歴史が埋もれているのだなぁ~と感慨深いものがあります。

中神坂交差点より館跡(福厳寺)を見る。

これも立派な玉石積ですね。
左右で石の大きさが違うのが興味深い。
施工年度が違うのか工事人が違うのか。

館跡の南側には防空壕の跡があります。
こういう部分にも歴史が残っています。

福厳寺さん本堂に参拝してから境内散策。
土塁や空堀などの遺構は不明でした。

案内板は文字が薄くて判読し難いです。

手持ちの資料の昭島の歴史によると

P79>
 『新編武蔵風土寄稿』には、福厳寺の項で「(福厳寺は)村の伝承によると、天正(1573~92)以前、立河宮内少輔一族の館があったところである」としています。確かに福厳寺は、普済寺の末寺になっています。
 また寺には『福厳寺境内及び除地絵図』(明治4年)があります。これには、かつて居館であったことを推測させる、土塁が描かれています。

P69>立河氏
 武蔵七党の、西党日奉氏の一流。宗恒の代から立河氏を称したという。
 鎌倉時代、現在の立川辺りの地頭であった。1213(建保元)年、和田義盛の乱で、西党21家が加担し、北条義時に滅ぼされた中で、平山氏と共に北条氏に味方し、その後も生き残った。
 室町時代は、土淵郷(現日野市)の地頭を兼ね、文和年間(1352~56)現在の柴崎町に普済寺を建てた記録がある。現在土塁が残るが、館との関係ははっきりしていない。
 柴崎八幡宮(現、諏訪神社に合祀)の本地仏阿弥陀如来に、天正14年(1586)年の背銘が残っており、立川照重の名がみえる。
 1590(天正18)年、北条氏の滅亡と共に、滅びたとされる。

とのことでした。

臨済宗建長寺派寺院名鑑によると

P74>智勝山 福厳寺
開基萬松和尚が夢窓国師を開山に観請して創建(1624)。寺域は往時武蔵七党一派の立川宮内少輔一族が居館した跡という。

とのことでした。

多摩川沿いの断崖沿いには多くの城館跡が点在していますが、断崖は湧き水が豊富で当時の農業には必須で、そこを抑える為と地形を生かした防御上の利点も高かったのでしょう。

兵どもが夢の跡・・・何を想いますか。

小菅城跡(山梨県小菅村)

5/28(日)、
11時45分頃に自宅を出発、
奥多摩湖畔で小休止して小菅村へ。

道中、懐かしい かどや旅館さん前にて。

13時30分頃に小菅城下に到着。
スカーレット号の駐機場所を探すと、
箭弓(やぎゅう)神社脇に場所があり。

有難いことに小菅城の案内板があり、
遺構の様子がわかるようになっています。
上の地図と比べると、
東西方向に新しい道が一本走っています。

まずは箭弓神社に参拝してから城内へ。

入口は神社北側に整備されています。
(少し風化で荒れていますが)
西斜面の山道を登ると、
自然地形を利用した小さな山城(砦)の
全容が徐々に伝わってくるようです。

図の一番西寄りの堀切。

図の中央左寄りの大きな堀切。

図の中央の堀切。右の斜面上が主曲輪。

北側帯状腰曲輪。右の斜面上が主曲輪。

東側帯状腰曲輪。左の斜面上が主曲輪。

南側帯状腰曲輪を登ると斜面上が主曲輪。
戦国時代当時は、斜面は急で堀切は深く、
上は板塀等で囲われ下は隠れ場所もなく、
上から準備された矢や石礫が降り注ぎ、
近づく敵には槍がエイヤと突き出され、
簡単に登れる場所ではあり得ず・・・。
僕なんか秒殺でしょうな ( ´艸`) 。

主曲輪には小さな祠が祭られていました。
参拝してから小さな山城で小休止です。

いつもの言わせて、「兵どもが夢の跡」。

破壊カ所から下って虎口を見下ろす。

虎口下より御屋敷跡の小学校を見下ろす。
城を南に出た所にも案内板がありました。

本来のお城の出入口はこちら方面でした。
(勝手口から入ったのが σ(゚∀゚ )オレ )
知らんかった_(_^_)_反省・・・。

小さな山城(砦)は全国に無数にあって、
多くが忘却の彼方に去ろうとしています。
小菅城跡の遺構は、有志の活動と研究で、
わかりやすく実に素晴らしい城跡でした。

復路、道の駅たばやまで小休止。
売店でこの地域の狼の絵本を買いました。

作 :寺崎美紅
絵 :玉川麻衣
発行:2022/1
出版:たばやま観光推進機構

読むのが楽しみな狼伝承の絵本です。

お手々カバー 三角点 プチ同窓会

5/6

ハンターさんのお手々カバー外しました。
ちょっと名残惜しいけど暑くてね。
で、今宵は飲み会だ~!
小作方面へ。本屋に寄ってみた。
単車倶楽部買ってみたら写ってないっす。
( ´艸`) そりゃそれでオッケー!
歩いてたら、ほ~、三角点標石とな~。

ありがたや~。

でその後は、プチ同窓会的な飲み会開始。

けっこ~飲んだぞ~。

又、やるぞ~。
参加者求む ( ´艸`) 。