玉川上水滑走路延長跡

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僕が生まれ育った立川の砂川界隈にて、面白そうな史跡を検索していて、思わず食いついてしまった史跡を発見。

僕の子供時代の遊び場エリアの何気ない謎として、脳裏の片隅にあったけど、もう忘れていた場所が、なんと「玉川上水滑走路延長跡」として、出ているではありませんか!

西武立川駅の南側の玉川上水が、ここだけ暗渠になっている理由について、子供だった頃に「なんでだろう?」と思っていたことを、謎として憶えておりました。

「そうか昭和飛行機の滑走路を延長するつもりだったんだ!」
思わず膝を打ちました(凄いスッキリ・・・そういうことだったのか~)。

この辺りは、旧横田基地、昭和飛行機、旧立川基地、立川飛行機等々、軍都だったわけですが、戦争に敗けて昭和飛行機の滑走路延長計画はなくなったようです。もっとも横田基地の滑走路は戦後に米軍により強引に延長され、牛浜から砂川へ真っ直ぐ抜けていた五日市街道は拝島経由に付け替えられ、今も大渋滞の元になっております。

16時25分頃、懐かしい玉川上水の暗渠の入口側(西側)へ行ってみます(柵の網目から撮影)。
年代物の低いアーチ型の欄干が時代を感じさせます。暗渠の天井部分も緩いアーチ型になっていて、手間を掛けて極力少ない資材で造るという、人件費が安くて材料が貴重だった当時の時代背景が見えてくるようです。

暗渠の出口側(東側)です。欄干が台形型の平面であることが解ります。
暗渠の天井部分の緩いアーチ型もよく解りますね。

今は遊歩道となって、市民の憩いの場所として利用されていますが、この場所に滑走路が延長される予定だったことを知っている地元住民も、興味のない人にはあまり知られていないのではと思われます。

案内板を設置していただけると、史跡巡りの散策が更に楽しくなるのでは思いました。

黒子

12/12の夜、右胸にあったホクロを切除しました。

子供の頃からあったのですが、数十年かけて少しずつ大きくなってきて、引っ搔いちゃったり目立つわで、思い切って皮膚科さんに相談してみたところ、液体窒素かレーザーで割と簡単に除去できると思っていたら、手術になるということで2ヶ月前に予約しての当日でございました。

手術はあっという間に終わり(テクニシャン!)、傷口は6針ぐらい縫ったかな。

面白いもので、今まで僕の身体の一部だった除去したホクロに、何か別れの一抹の寂しさのようなものを感じてしまいました。

実家に戻ったときに母親にその話をしたところ、「私もそこにホクロあるわよ」と言われ・・・そうだった、母もそこに同じホクロがあったんだ・・・しまった・・・と、親子の証を絶ってしまったような気持ちに陥りました。

その話を職場の先輩女性にお話しすると、「だめじゃん、とっちゃ」と言われ、後の祭りでございました。

ホクロって実に昔から奥が深いですね。
今までありがとう、僕のホクロちゃん。
( ´艸`)

尾崎山城跡(八王子)

11/26
八王子の左入で用事を済ませて、付近の城跡を検索してみると尾崎山城跡がヒット、
MAPは八王子インターの料金所北側付近を示しています。

R16から入って、高速道路沿いを東に進み、舗装路の突き当りでバイクを降り、畑を見下ろして、地図と比較すると茶色い畑部分が明示された場所のようです。

農作業をされていた現地の方にお話しを伺うことが出来ましたが、城跡については「らしいけどインターの工事で無くなっちゃったみたいだよ」ということらしく、僕が来た西側からの高速沿い舗装路突き当りから東北方向に丸く抜ける斜面添いの通路(通行不可)は「えらく古い古道らしいんだよ」とのことでした。
瓦葺の白い建物は神社とのことで、一旦戻って北側から古道を南下して行けるとのこと。

農作業の方に聞いたとおりに北側から古道を南下してアクセスし、鬱蒼と木々が生い茂った小山の北側に愛機を停めました。

古道を登ってゆくと、空堀や土塁のように見えてきてしまいます。
( ´艸`) でも、かも知れないよ。
城跡の主要部はインターの工事で破壊されていても、曲輪の下の方の一部は残っている可能性もあり、規模的にいって城というより砦や陣地規模かも知れませんが、今いる場所は往時の城域の可能性もある・・・かも知れないし。

MAPでは尾崎八幡神社、現地では八幡神社となっておりました。

現地の神社由来の石碑より

八幡神社の由来
 八幡神社は古来から伝えられる神々のうちでは、最も広く信仰されている守護神である。
 源頼朝が鎌倉の鶴岡へ観請したことから、関東武士の崇敬を集め次第に多摩地方にも広がった。
 八幡神社の祭神は、応神天皇といわれ、嘉禄二年(1226年)に創建されたという古い歴史を有する神社である。(以下略) 

ここからは僕の妄想です!
城には鬼門除けで北東方向に神社を奉ることも多く、神社の南西方向に城(砦)があったとするなら・・・城跡がインターの料金所一帯というのは、位置的には整合するのではないかと・・・どうだろう。
いろいろな性質のお城があるけど、戦国時代の地域の小さな山(丘)城は、住民の避難所の機能もあったと思うので、自然地形を生かした小さな砦があったのではなかろうか。

北方より、尾崎山城跡とされる一帯を望む。

武田勝頼公が、滝山城攻めで父である武田信玄公が本陣を敷いた拝島大師と、滝山城を挟む当地に陣を敷いて、滝山城の二の郭まで落としたという伝承があり、地方豪族又は北条方の支城(砦)があって、武田勝頼旗下の軍団が圧倒的武力でこの地を占拠したのではなどと想像すると、やはり 兵どもが夢の跡・栄枯盛衰 を想わずにいられません。

大洋漁業 カブ

百草園で、素敵なスーパーカブに遭遇して、思わず立ち止まっちゃいました。

どんな人が乗っているんだろうと思っていたら、カブ主さんが現れまして、少しだけお話しさせていただきました(許可を得て機体を撮影)。

荷台の トロ箱 が秀逸で、ゴムバンドが最高にカッコイイです!魚籠 や まな板 も似合っていますね。

この カブ で、遠乗り や キャンプ、青山ミーティング他のカブミーティングに参加されているそうです。

後でちょっと『カブ 大洋漁業』で検索してみましたら、オーナーさんは、まな竿(カブ主)さんという方だったのですね!

私 ver.34 が スカーレット号 で散走🐾している際に、偶然どこかでお会い出来ることを楽しみにしています。

スカーレット号 タイヤ交換

11/6 の夕方、myエブリイさんにスカーレット号を積み込んで、パンクを機会にタイヤ交換する為にバイク屋さんにお届けします。
ところで適正空気圧まで空気を入れてみると、一日かけて1キロ抜けるスローパンクチャーのようでしたが、振動で空気圧がどうなるかわからなかったので、大事をとって自走はやめて運搬しました。

翌11/7 の夕方

前輪のノーマルタイヤは、

BS BATTLAX BT-39F SS 80/90

後輪のノーマルタイヤは、

BS BATTLAX BT-39 SS 90/80

を奮発してみました。

買って1年4カ月経つけど、
林道行かないし、キャンプも行かないし、
オンロード性能を重視してみました。
(なんでハンター乗ってるの?・・・)
それを言うな ( ´艸`) 。

ハンターとの出会いは偶然の幸運です。
たまたまですけどハンターでよかった。
まぁ俺みたいなの、いてもいいでしょ。

で、奥多摩周遊を試走したけど、
下りのコーナリング性能は、
今までとは全く違う安定感!
タイヤの性能の差に驚いちゃいますね。
特に僕のようなヘタレには・・・。
(人”▽`)ありがとう☆

スカーレット号のパンク

10/30
出勤しようとスカーレット号に跨ると、
???重いな・・・低いぞ・・・あれ?
降りて後輪を見ると、パンクしてるよ。
(;^_^A アセアセ・・・💦
オーマイガッ!忙しいこんな日に・・。
マジか・・・困った・・・弦月号だぁ!
で、爆音を響かせながらの出勤で~す。
職場では「まだ持ってたの?」だって。

久しぶりの弦月号での職場駐機場!
つうか農家の納屋かよ(笑)。
バイク屋さんに電話したけど通じない。
夕方も電話したけど通じない(休?)。
とりあえず緊急時用に買ってみたのが、
ネットでポチっと瞬間パンク修理剤。

スリーボンド、懐かしいね~。

ホムセンでも買っちゃいました。

次の日、バイク屋さんに連絡がつき、
前後のタイヤを交換することに。
(チューブ・リムテープ共に)
入荷までの一週間、現月号で通勤です。

バイク屋さん曰く、
瞬間パンク修理剤は後始末が大変だし、
今回は使わないでほしいですって。
だよね・・・(笑)。

パンクは災難だったけど、
自宅での発見は恵まれていたと思う。
出先だったら何倍も大変だった筈です。
備えよということで有難いことですね。

奥多摩~鳥居原へ散走🐾 オイル交換もね

10/28
8:15 家を出て、
8:55 7-11古里で朝食ゲット、
9:20 奥多摩湖畔に到着。

平日は目に入ってない雲と山並みと水面。
美しいですね~。

9:30 大麦代Pで小休止。
空いてます。
そこから小菅を経由して、上野原丹波山線を快走、上野原市内を若干?迷走(笑)の後、甲州街道を東進、相模湖畔を抜けて、ちょっと渋滞のR412をのんびりと、鳥屋川尻線に入ります。

11:55 地震峠に立ち寄りました。
関東大震災による山津波(土砂崩れ)で、埋没して亡くなった方の慰霊碑に参詣しました。
山が崩れて地形が変わり、人々や家屋を埋めて、川をせき止めた後に流れさえ変えてしまう自然の猛威の前には、今日もましてや当時の人々には成す術もなかったと思います。

鳥屋・地震峠の案内板です。

12:10 鳥居原Pで小休止。
先日の観音様ツーリングで御一緒したカブ主さんをお見かけしました。

宮ケ瀬湖を出て県道510号線の津久井湖との間ぐらいを走っていると、左側になにやらこんもりとした盛土と大きな木が茂っています・・・古墳かな?

一旦通り過ぎて戻ってきました。

塚のようです。

案内板によると

富士塚
津久井町根小屋富士塚1918番地
 この塚は土地の人は富士の森とも呼ぶ、新編相模国風土記稿に「首塚」として「寺領(功雲寺)南金原ニアリ、天正18年(1590)平岩主税(徳川軍の武将)津久井城ヲ攻落シ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ナリト云フ、塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽ユ」とある。
 天保6年(1835)3月八王子千人隊十人頭、塩野適斎が幕府の命により地誌編纂のため、この塚を訪れた時に「首塚」と題し作詞し筑井県紀行詩集に収められている、
 首塚何年何世人 言斯津久井城臣
(首塚はいづれの年いづれの世の人と
     言うこれ津久井城の臣なりと)
 只今唯有桜花発 寂々寥々不耐春
(只今ただ桜花のひらくあり
   せきせきりょうりょう春にたえず)
 塚上に浅間大神(明治23年9月建立、越後国、浜島勝)、富士浅間大神(明治23年寅6月1日開眼師、岩崎泰健、根古屋卿中)、妙法金人水神(年代不明)の三基の石仏がある。江戸期から明治にかけ富士山を神格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士講がつくられ江戸八百八講と呼ばれる程になったといわれ、富士山に登山できない者のために富士山をまねた富士塚が各地につくられた、この塚も浅間大神の石仏があることから古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士塚と呼ばれるようになったと考えられる。
 塚の面積約280平方米、昭和37年6月27日より大蔵省(財務省)の管理地となる。
 平成3年12月1日
         津久井町教育委員会

と、ありました。
句点やカタカナが当時もので面白いね。

激動の時代だ・・・今の日本は平和だね。
その礎となった先人達に感謝いたします。
ただ生きているだけで凄いことなんだね。
時々はそんな想いに駆られることもある。

いつものバイク家さんで、1500キロ毎のオイル交換もしました。
今日も愛機スカーレット号は快調です。

誰かのZX-6R

9/23

14:55、青梅のカインズホームへ、
ゴム製のワッシャーを買いに行ったら、
駐機スペースにZX-6R?が・・・
めっちゃカッコイイ---!

もしもオイラが乗ったら、
30分経たないうちに腰痛になりそうな
ライディングポジションですが、
_| ̄|○
見ているだけで痺れますなぁ~。

子供の教育ローンが終わったら、
乗ってみてぇ~。
せめてそう思うことは、
大事っすよね~(笑)!