奥多摩~鳥居原へ散走🐾 オイル交換もね

10/28
8:15 家を出て、
8:55 7-11古里で朝食ゲット、
9:20 奥多摩湖畔に到着。

平日は目に入ってない雲と山並みと水面。
美しいですね~。

9:30 大麦代Pで小休止。
空いてます。
そこから小菅を経由して、上野原丹波山線を快走、上野原市内を若干?迷走(笑)の後、甲州街道を東進、相模湖畔を抜けて、ちょっと渋滞のR412をのんびりと、鳥屋川尻線に入ります。

11:55 地震峠に立ち寄りました。
関東大震災による山津波(土砂崩れ)で、埋没して亡くなった方の慰霊碑に参詣しました。
山が崩れて地形が変わり、人々や家屋を埋めて、川をせき止めた後に流れさえ変えてしまう自然の猛威の前には、今日もましてや当時の人々には成す術もなかったと思います。

鳥屋・地震峠の案内板です。

12:10 鳥居原Pで小休止。
先日の観音様ツーリングで御一緒したカブ主さんをお見かけしました。

宮ケ瀬湖を出て県道510号線の津久井湖との間ぐらいを走っていると、左側になにやらこんもりとした盛土と大きな木が茂っています・・・古墳かな?

一旦通り過ぎて戻ってきました。

塚のようです。

案内板によると

富士塚
津久井町根小屋富士塚1918番地
 この塚は土地の人は富士の森とも呼ぶ、新編相模国風土記稿に「首塚」として「寺領(功雲寺)南金原ニアリ、天正18年(1590)平岩主税(徳川軍の武将)津久井城ヲ攻落シ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ナリト云フ、塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽ユ」とある。
 天保6年(1835)3月八王子千人隊十人頭、塩野適斎が幕府の命により地誌編纂のため、この塚を訪れた時に「首塚」と題し作詞し筑井県紀行詩集に収められている、
 首塚何年何世人 言斯津久井城臣
(首塚はいづれの年いづれの世の人と
     言うこれ津久井城の臣なりと)
 只今唯有桜花発 寂々寥々不耐春
(只今ただ桜花のひらくあり
   せきせきりょうりょう春にたえず)
 塚上に浅間大神(明治23年9月建立、越後国、浜島勝)、富士浅間大神(明治23年寅6月1日開眼師、岩崎泰健、根古屋卿中)、妙法金人水神(年代不明)の三基の石仏がある。江戸期から明治にかけ富士山を神格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士講がつくられ江戸八百八講と呼ばれる程になったといわれ、富士山に登山できない者のために富士山をまねた富士塚が各地につくられた、この塚も浅間大神の石仏があることから古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士塚と呼ばれるようになったと考えられる。
 塚の面積約280平方米、昭和37年6月27日より大蔵省(財務省)の管理地となる。
 平成3年12月1日
         津久井町教育委員会

と、ありました。
句点やカタカナが当時もので面白いね。

激動の時代だ・・・今の日本は平和だね。
その礎となった先人達に感謝いたします。
ただ生きているだけで凄いことなんだね。
時々はそんな想いに駆られることもある。

いつものバイク家さんで、1500キロ毎のオイル交換もしました。
今日も愛機スカーレット号は快調です。

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