伝藤原秀郷居館跡ほか散走!

1/14 11:40頃、Dwaf galaxy号 (BS スニーカーライト SNL163)で自宅を出発。
寒いけど、いい天気だね。

多摩サイ左岸の羽村取水堰0キロポストにて。
(たまリバー50キロ)
のんびり気ままにマイペースで走ろう。

寒波の影響か、向い風が強い~~~。
服装はどのくらいの負荷で走るかによって変わるけど、本気で走るなら専用ウェアで、のんびりペースなら気楽に軽くて風を通さない暖かい格好でいいんじゃない。
オイラは、下は厚地の黒のレーパン(パールイズミの昔買ったやつ・おしりにパッド入り)、上は厚地のヒートテックに息子が着古したユニクロのパーカーにワークマンの防風ヤッケ(笑)でした。

向かい風が強いこんな日は、人出が少なくて、サイクリストにとっては空いていて走りやすい一面もある。
ランナーや歩行者と交錯するときは余裕をもって前後左右の安全確認をして、広いとはいえない多摩サイを快適に利用したいものですね。お互いにありがとうの合図は嬉しい。
走行ペースは暖機運転から巡航速度へ徐々に自然とペースUP!

12;45頃、JR中央線多摩川橋梁に差し掛かった時に、先週の右岸を思い出したので寄ってみる。

明治22年(1889)架橋の橋脚と橋梁。築135年の貴重なものです。

13;00頃、日野橋を潜って立川公園陸上競技場の付近にて、中央の遥か彼方に富士山が見えます。

まさにサイクリング日和。

時々止まって付近の史跡を検索、僕好みの中世の戦史ものを探してみる。

沿道の東屋や公園のベンチでお弁当を食べているサイクリストが多いと思ったら・・・そういえば、起きてから何も食べてなかった・・・そろそろ電池切れ(笑)です。

関戸橋~京王中川原駅界隈で食べ物屋さんを探してみるもお店が少ないようで・・・。
13;35頃、劉記(府中市住吉町)さんに入ってみました。

頼んだのはやはり大好物の天津丼。

たぶん中国系の方のお店で、本格的な街中華は具沢山でとても美味しかった~!
配膳のお姉さんも愛想よく可愛らしくてグ~ッでした!
メニューに天津丼があると必ず食べてしまうオイラです。
(好き嫌いのあまりないオイラの数少ない大好物)

チャージ完了、行き先を検索っと。
(この無計画行き当たりばったりがソロでは楽しい)

14;05頃、分倍河原古戦場碑に寄ってみる。
時は中世・鎌倉時代の終わり、新田義貞軍VS北条泰家軍の戦いです。

案内板によると

東京都指定旧跡
分倍河原古戦場
所在地 府中市分梅町2-59新田川分梅公園
指 定 大正8年10月
 文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は破れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。
 平成10年3月建設 東京都教育委員会

※文永・弘安の役 ⇒ 蒙古来襲

栄枯盛衰ですな・・・。

14:20頃、首塚古墳(府中市美好町3丁目)に寄ってみます。
正式には、高倉古墳群27号墳というらしい。お参りさせていただきました。
東西南北とも削り取られて中央部分のみ残って、古墳にせよ塚にせよ神社にせよ周りが様変わりしていて、うら寂しい感じがしていました。

案内板はありませんが、元は直径10m程の円墳だそうで、今は過半が削られているらしく、銅製品等が出土しているようで、他に「江戸名所図解」では分倍河原の戦いで討死した兵士の首塚・胴塚などとも称されているようです。

14;30頃、伝藤原秀郷居館跡(高安寺城跡)へ。
凄い立派な山門ですね。驚いた!
畏れ多くて潜らずに脇を通りました。

案内板によると

東京都指定歴史的建造物
高安寺本堂・山門・鐘楼
所在地 府中市片町二丁目4番1号
建設年 本堂 享和3年(1803)
    山門 明治5年(1872)
    鐘楼 安政3年(1856)
 龍門山高安寺は歴応年間に創設された臨済宗建長寺末であった。後に小田原北条氏滅亡後、慶長年間宗洞宗海禅寺の七世により再建された。
 本堂は木造平屋建て、屋根は寄棟造銅板葺(旧茅葺)、六つ間取で内部正面に広縁、両側面に入側縁から構成されている。内陣や大間の組物廻りに意匠を凝らした点に特徴が見られ、大縁(八尺間)は禅寺基本の姿をとどめている。
 山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材は全て欅)二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺、柱は全て円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。
 鐘楼は本堂の北東、庫裏の前方に建っていて、木造(柱・梁等の構造材は全て欅)、袴腰付きで、屋根は宝形造銅板葺である。虹梁型頭貫の木鼻位置には龍の丸彫を配し、支輪板には鶴の浮彫彫刻を施すなど、山門と同様、彫刻装飾を多く取り入れている。
東京都生活文化局

まずは本堂にお参りしてから。

案内板によると

当山略縁記
 当山は往古 田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(66ヵ国2島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。
 当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心禅師であった。時に歴慶年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も75院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。
 その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北條氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大利の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて宗洞州となり今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈祷を行なっている。
 本尊釈迦牟尼如来(文珠・普賢の三尊仏)
  みどころ
一、弁慶硯の井 見性寺と呼ばれた頃の事。義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったたので弁慶覗きの井の遺蹟がある。
一、秀郷稲荷 田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山にに祀る。
龍門山 高安寺 

弁慶硯の井戸は本堂の裏手(西側)にあるようです。
方位 北は↓ です。

秀郷稲荷大明神の北側の斜面(階段)を降りると、

弁慶硯の井戸がありました。

ふり返ると、

見事な自然崖を利用した土塁の遺構が残っているのではありませんか?
外周の道路を自転車で周って確認しましたが、西・南・東の三方を自然断崖を生かし、北方は恐らく人工的な空堀や土塁等で囲い、解説板にあるように非常時は城塞となる寺院だったのではないかと・・・埋もれた歴史に人々の営みや雑兵達の息吹や兵どもが夢の跡を感じてしまいました。

15;05頃、三千人塚へ。

塚の上には立派な榎が。

多摩地区最古の板碑ですって。

案内板によると

東京都指定史跡
三千人塚
所在地 府中市矢崎町二丁目21番2号
指 定 平成17年2月22日
 三千人塚は、江戸時代の地誌『武蔵名勝図絵』などにも紹介されている由緒ある塚です。塚の上には、多摩地区最古となる康元元年(1256)の板碑が建ててあり、「板碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
 昭和30年に地元の郷土史家により、この塚の西側が発掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(四個)が出土しています。
 平成17年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、石にお経の文字を写した「磔石経」が大量に出土しました。この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(1333)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたものであることがわかりました。
 三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一族による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされてきたといえます。
 平成18年3月1日 東京都教育委員会

とのことです。

さて、そろそろ帰途につかなきゃ。

15;20頃、JR南武線の府中本町駅へ。

愛機を折りたたんで輪行バックに収納し、電車で帰ることにします。
バス待ちの老紳士が、僕の方を見て「そりゃあいいアイデアだ」と、感心しておられました(笑)。

福生駅で降りて、16:30頃に遊輪館さんへ。

頼んでいた DAHON K3 の交換用のタイヤを受け取りました。

多摩サイに入って、家路を急がずのんびりと走ります。

夕陽が丘陵の向こうに落ちて綺麗だなぁ。
ふと、人々の営みを感じた一瞬があった。
オートバイもとても楽しいけれども、
自力で漕ぐ自転車もなかなかですぜ!

17:05頃に帰宅して、楽しかった~・・・でも風邪ひきそう。
本日は36キロほど走ったようです。
又、走りましょう。

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