小田原城跡 石垣山一夜城跡

1/19 11:00頃、小田原城跡に立ち寄る。

開門じゃ~。でっけぇ門じゃのぉ~。

立派な天守じゃ。超高層じゃのぉ~。

もっともワシは白い部分じゃなく、石垣の部分が好きなのじゃが。

城とは 土で成る のであって、土の表面を石の装甲で固めたような石垣の曲輪こそが、ここの城なのじゃよ。

天守からの眺めは良い。

城主が北条さんの五代目の頃、豊臣秀吉さんの軍勢に囲まれたときは、凄い眺めだったでしょうね。東西南北、陸も海も山も川も全て囲まれ、小田原の支城が落とされても救援にさえ行けない。しかし、上杉謙信さんや武田信玄さんの軍勢を寄せ付けなかった難攻不落の小田原城は、桁違いの規模の豊臣秀吉さんの軍勢をしても、力攻めをさせませんでした。すごい城だ。

当時の城主さんは、このような 小顔 の イケメン だったことでしょう。

まったくもって奇跡の9頭身です。はい。

本丸の松が立派じゃ。

マツにおまかせください・・・、それは加賀百万石の菜々子さんじゃったのぉ。

四百年も時の流れを見て来たんだね。たいしたもんだ。

秀吉さんは、小田原城の西方の笠懸山の山頂に密かに城を築き、完成と同時に周りの木を伐採し、北条側に一夜にして城を築いたように見せかけて、戦意を喪失させ、石垣山一夜城と呼ばれた城を80日の突貫工事で城を完成させたのは、想像もできないね、凄すぎて。 関東で最初の総石垣の城だったそうです(今の小田原城は徳川時代がベースです)。縄張り(設計)は黒田如水さんだったとの説があるそうです。

北条さんは小田原城を開城し、小田原城の北条さん五代の歴史に幕が下りてしまいました。歴史は勝者がつくるとも言われていますので、小田原評定などと北条さん側にとってはネガティブに語られることも多かったと思いますが、全盛期の北条さんは関東の雄であり、政治や経済、軍事や農政などでは、類い稀な統治をされてきたと思われ、研究者により見直されつつあると読み聞こえてきます。

天守から石垣山一夜城付近が見えます。戦闘時に高層の天守からでさえ見上げるような近くの山上に、関東には無い総石垣の〝あんなもん〟見せられたら、もう無理だと思っちゃうよね。

五代目の北条氏直さんは自身の切腹を願い出て全ての城兵の赦免を願い出る(今時こんなリーダーいないね)も切腹は見送られ(徳川家康の娘婿だし)、代わりに四代目の北条氏政さん、その弟の北条氏照さん(八王子城や滝山城の城主)などが切腹を命じられたとのこと。

北条氏直さんは高野山に蟄居を命じられ、翌年2月には許されて1万石が与えられたけど、その年の11月に亡くなってしまったとのこと。その後の北条氏の主流は、なんと河内・狭山藩の小名として豊臣~徳川時代に続いたそうです。知らなかったよ。関東の北条さんの家臣は、その後を領した徳川家康さんの配下になって、再就職できた武将も多かったでしょうね。

さてさて、小田原城の戦意を喪失させた石垣山一夜城に行ってみます。案内板が多くて迷う事なし。駐車場やトイレや売店も整備され快適に見学ができます。もっとも石垣山一夜城跡については、歩道以外はあまり整備されておらず、石垣も荒れ放題のまま手つかずで、城跡ファンとしては逆に貴重な遺構でもあります。

時間の都合であまり滞在できませんでしたが、山上に築いた総石垣の巨大な井戸は見事でした。さすが天下人の城なんだなぁ~と感慨深いものがありました。

秀吉、恐るべし。この城を80日の突貫工事でね。今でいうと孫正義さんかな・・・。不世出の天才というものは。それとブレーンも凄いね。

僕なりにとても有意義で、間接的に学びがあり、感じるものがあり、よい城跡探訪になりました。

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