尾崎山城跡(八王子)

11/26
八王子の左入で用事を済ませて、付近の城跡を検索してみると尾崎山城跡がヒット、
MAPは八王子インターの料金所北側付近を示しています。

R16から入って、高速道路沿いを東に進み、舗装路の突き当りでバイクを降り、畑を見下ろして、地図と比較すると茶色い畑部分が明示された場所のようです。

農作業をされていた現地の方にお話しを伺うことが出来ましたが、城跡については「らしいけどインターの工事で無くなっちゃったみたいだよ」ということらしく、僕が来た西側からの高速沿い舗装路突き当りから東北方向に丸く抜ける斜面添いの通路(通行不可)は「えらく古い古道らしいんだよ」とのことでした。
瓦葺の白い建物は神社とのことで、一旦戻って北側から古道を南下して行けるとのこと。

農作業の方に聞いたとおりに北側から古道を南下してアクセスし、鬱蒼と木々が生い茂った小山の北側に愛機を停めました。

古道を登ってゆくと、空堀や土塁のように見えてきてしまいます。
( ´艸`) でも、かも知れないよ。
城跡の主要部はインターの工事で破壊されていても、曲輪の下の方の一部は残っている可能性もあり、規模的にいって城というより砦や陣地規模かも知れませんが、今いる場所は往時の城域の可能性もある・・・かも知れないし。

MAPでは尾崎八幡神社、現地では八幡神社となっておりました。

現地の神社由来の石碑より

八幡神社の由来
 八幡神社は古来から伝えられる神々のうちでは、最も広く信仰されている守護神である。
 源頼朝が鎌倉の鶴岡へ観請したことから、関東武士の崇敬を集め次第に多摩地方にも広がった。
 八幡神社の祭神は、応神天皇といわれ、嘉禄二年(1226年)に創建されたという古い歴史を有する神社である。(以下略) 

ここからは僕の妄想です!
城には鬼門除けで北東方向に神社を奉ることも多く、神社の南西方向に城(砦)があったとするなら・・・城跡がインターの料金所一帯というのは、位置的には整合するのではないかと・・・どうだろう。
いろいろな性質のお城があるけど、戦国時代の地域の小さな山(丘)城は、住民の避難所の機能もあったと思うので、自然地形を生かした小さな砦があったのではなかろうか。

北方より、尾崎山城跡とされる一帯を望む。

武田勝頼公が、滝山城攻めで父である武田信玄公が本陣を敷いた拝島大師と、滝山城を挟む当地に陣を敷いて、滝山城の二の郭まで落としたという伝承があり、地方豪族又は北条方の支城(砦)があって、武田勝頼旗下の軍団が圧倒的武力でこの地を占拠したのではなどと想像すると、やはり 兵どもが夢の跡・栄枯盛衰 を想わずにいられません。

窓に布を吊り下げた

オイラの秘密基地!?(笑)と化してる納戸部屋ですが、以前に嫁ちゃんがガラスに断熱?フィルムを「やめろ」と言うのに 貼りやがって(笑・・・ヤメロと言うとヤルのが言い出したら聞かない嫁ちゃん!)、それが経年劣化してボロボロになりまして、ついにそいつを剥がしてカーテンも新調することに。
レールを取り付けるのも面倒で、手前に出っ張るのもなんだし、以前同様に突っ張り棒にカーテンクリップ(DAISO)で生地を吊り下げる簡単な方式にしてみた。
洋裁が趣味の 我が母親 にお頼み申して、母が持っている生地からオイラが選んだものでカーテン布を作っていただきました。
_(_^_)_

10/14 窓枠内法 W75㎝ × H70㎝
フィルムをキレイに剥がして&黒ずんだ窓枠を掃除するのが一番大変でした。窓を枠から外して風呂場で徹底的に洗いましたもん・・・フィルムの糊が落ちねえ落ちねえ・・・窓枠のゴムの劣化を恐れて剥離剤は使用せず・・・温水シャワーと洗剤で根気よく落としました。
ふと思った・・・僕の予想外の思い付きを実行するのが嫁ちゃん → 失敗した場合の後始末はオイラ・・・、もちろん是々非々ですが、面白い人だと感心しています。
そうそう、買ってきたショートケーキの先っぽをいつのまにか全て切って、先に味見する食癖はやめてくれ・・・無理か・・・(笑)。

10/22 窓枠内法 W120㎝ × H70㎝

開けるとこんな感じ。

あ~、フィルムがなくなってすっきりした~。
オイラは外から家の中が丸見えでも割と平気なもんで(夏場にパンツ一丁でのゴロ寝を見られてもOK・・・田舎の爺様かよ・・・ゴロっと出てたり・・・観た人の気持ちは知らないが・・・笑)。

生地の上端に丸い穴を開けて、突っ張り棒を通したら隙間がなくてよかったと、次回への課題も!

長渕の館跡

9/18
約束の時間まで少し間があったので、

12:10、青梅市長渕にある三田氏の館跡といわれる場所に行ってみました。

三田氏は戦国時代まで青梅一帯を支配していた名族で、青梅の各地に城跡が残っており、その一つがこの館跡です。

名族の末裔なのか、地域の名士として名を残しておられるようですね。

前を通りましたら、古い墓石に三田氏の名が見えました。
むろん私有地につき立入不可ですよ!

多摩川沿いの北斜面は、左が多摩川、右が館跡の立地で、更に右に行くと丘陵が続き、館跡の西側には沢が流れ、戦国時代に地域を支配する館を構えるには適地なのではと思えました。

約束の時間が来たので、三田氏の館跡を後にします。

羽村某所のコンビニにて、暑すぎて日陰で小休止。

みなとみらい 日本丸 Hama Wing

7/15(土)
仕事の用事で みなとみらい へ。

用事は午前中で終わり、少し蒸し暑いけど、せっかくなので少し散策してみることに。
ι(´Д`υ)アツィー

お上りさん(オイラ田舎者っす)ですので、とりあえずランドマークタワー方面に歩いてゆくと、
おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ)、NO2 DOCK。

・現地解説板より

明治41(1908)年 地図とのこと

実際に見たのは初めてのような気がする。
ほとんど遺跡だね。
遺跡の保存と再利用が上手くされているのかな~と思いました。

おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ)、NO1 DOCK。

その向こうには日本丸が。

・現地解説板より

NO1 DOCKは、日本丸専用ドックになったんだね。

美しい後ろ姿に誘われて・・・、

前に回り込んでみると、絶世の美女のよう!

・現地解説板より

この美しい帆船が、1930~1984年に現役を退くまで、183万キロ(地球45.4周)航海したなんて、想像もつかない程に凄いことですね。
蒸し暑過ぎて( ̄▽ ̄;)・・・乗船は次回にさせていただきます。

暑いけど、浜風(割と強風 笑)が吹いているのが救いですな~。
すたすたと駅への道を歩いていると、通りの遥か彼方に風車が!

力強く ぐるぐる 回っていますがな~。
おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ) Hama Wing!

もしかして、近くまで行けちゃう?
無理だったような気がするけど、行ってみるか!
ということで、すたすた歩いて近寄ります。
クイーンズスクエア、パシフィコ横浜、臨港パークを抜けると・・・やはり港の対岸でした・・・残念。
_| ̄|○

ですが、有り難いことに解説板が!

・現地解説板より

・ウィキペディア より

風車の遠景を構わず撮っていたら、

拡大してみると、

素敵な若い家族が写っていました。

思わずほっこり嬉しさいただきました。
(〃▽〃)ポッ 幸せにな~。

そういや朝から何も食べてなかったっけ・・・お腹が空きました。
どこかで朝昼兼用のランチを食べていこうか!・・・一人だし、立ち食いそば屋でもいいけど(笑)。

立河氏館跡(昭島市中神町)

6/10、小さな城跡を検索していたら、昭島の中神町に立川照重館跡とある。
ちょっと気になるじゃないですか。
スカーレット号で行ってみましょう。
14:00頃に現着しました。

立川の砂川に育った僕は、多摩川での釣りや川遊びでよく自転車で通った中神坂(昔はもっと狭かったような・・・)の上のお寺さん(福厳寺)が館跡のようです。
へぇ~・・・ここがそうなんだ。
子供の頃は全く館跡なんて思いもせず、意外さや懐かしさとともに、何気なく通り過ぎていた身近な街並みにも、激動の歴史が埋もれているのだなぁ~と感慨深いものがあります。

中神坂交差点より館跡(福厳寺)を見る。

これも立派な玉石積ですね。
左右で石の大きさが違うのが興味深い。
施工年度が違うのか工事人が違うのか。

館跡の南側には防空壕の跡があります。
こういう部分にも歴史が残っています。

福厳寺さん本堂に参拝してから境内散策。
土塁や空堀などの遺構は不明でした。

案内板は文字が薄くて判読し難いです。

手持ちの資料の昭島の歴史によると

P79>
 『新編武蔵風土寄稿』には、福厳寺の項で「(福厳寺は)村の伝承によると、天正(1573~92)以前、立河宮内少輔一族の館があったところである」としています。確かに福厳寺は、普済寺の末寺になっています。
 また寺には『福厳寺境内及び除地絵図』(明治4年)があります。これには、かつて居館であったことを推測させる、土塁が描かれています。

P69>立河氏
 武蔵七党の、西党日奉氏の一流。宗恒の代から立河氏を称したという。
 鎌倉時代、現在の立川辺りの地頭であった。1213(建保元)年、和田義盛の乱で、西党21家が加担し、北条義時に滅ぼされた中で、平山氏と共に北条氏に味方し、その後も生き残った。
 室町時代は、土淵郷(現日野市)の地頭を兼ね、文和年間(1352~56)現在の柴崎町に普済寺を建てた記録がある。現在土塁が残るが、館との関係ははっきりしていない。
 柴崎八幡宮(現、諏訪神社に合祀)の本地仏阿弥陀如来に、天正14年(1586)年の背銘が残っており、立川照重の名がみえる。
 1590(天正18)年、北条氏の滅亡と共に、滅びたとされる。

とのことでした。

臨済宗建長寺派寺院名鑑によると

P74>智勝山 福厳寺
開基萬松和尚が夢窓国師を開山に観請して創建(1624)。寺域は往時武蔵七党一派の立川宮内少輔一族が居館した跡という。

とのことでした。

多摩川沿いの断崖沿いには多くの城館跡が点在していますが、断崖は湧き水が豊富で当時の農業には必須で、そこを抑える為と地形を生かした防御上の利点も高かったのでしょう。

兵どもが夢の跡・・・何を想いますか。

小菅城跡(山梨県小菅村)

5/28(日)、
11時45分頃に自宅を出発、
奥多摩湖畔で小休止して小菅村へ。

道中、懐かしい かどや旅館さん前にて。

13時30分頃に小菅城下に到着。
スカーレット号の駐機場所を探すと、
箭弓(やぎゅう)神社脇に場所があり。

有難いことに小菅城の案内板があり、
遺構の様子がわかるようになっています。
上の地図と比べると、
東西方向に新しい道が一本走っています。

まずは箭弓神社に参拝してから城内へ。

入口は神社北側に整備されています。
(少し風化で荒れていますが)
西斜面の山道を登ると、
自然地形を利用した小さな山城(砦)の
全容が徐々に伝わってくるようです。

図の一番西寄りの堀切。

図の中央左寄りの大きな堀切。

図の中央の堀切。右の斜面上が主曲輪。

北側帯状腰曲輪。右の斜面上が主曲輪。

東側帯状腰曲輪。左の斜面上が主曲輪。

南側帯状腰曲輪を登ると斜面上が主曲輪。
戦国時代当時は、斜面は急で堀切は深く、
上は板塀等で囲われ下は隠れ場所もなく、
上から準備された矢や石礫が降り注ぎ、
近づく敵には槍がエイヤと突き出され、
簡単に登れる場所ではあり得ず・・・。
僕なんか秒殺でしょうな ( ´艸`) 。

主曲輪には小さな祠が祭られていました。
参拝してから小さな山城で小休止です。

いつもの言わせて、「兵どもが夢の跡」。

破壊カ所から下って虎口を見下ろす。

虎口下より御屋敷跡の小学校を見下ろす。
城を南に出た所にも案内板がありました。

本来のお城の出入口はこちら方面でした。
(勝手口から入ったのが σ(゚∀゚ )オレ )
知らんかった_(_^_)_反省・・・。

小さな山城(砦)は全国に無数にあって、
多くが忘却の彼方に去ろうとしています。
小菅城跡の遺構は、有志の活動と研究で、
わかりやすく実に素晴らしい城跡でした。

復路、道の駅たばやまで小休止。
売店でこの地域の狼の絵本を買いました。

作 :寺崎美紅
絵 :玉川麻衣
発行:2022/1
出版:たばやま観光推進機構

読むのが楽しみな狼伝承の絵本です。

若洲風力発電施設

5/20、
あさイチでエブリイさんのオイル交換へ。
(5千キロ毎の)
いつもの車屋さんに作業をお願いします。
リフトアップしたら下廻りは割とキレイ。
なんか萌える(いい年齢して)光景です。
いやぁ・・・全く廉価なお車なんですが。
( ̄m ̄〃)ぷぷっ! 自慢度ゼロっす!
(むしろ下のリフトの方が凄い)

新車で3年3カ月で5万キロ余り・・・、
自家用の割にはよく走る方かなぁ・・・。
(車屋さんが大袈裟に驚くもんで)

帰宅後、
切抜き待ちの新聞の山の整理をしてたら、
そうそうあった、若洲公園の風力発電が、
来年度に撤去されちゃうんだったっけか。

壊した後は太陽光とは・・・残念だなぁ。
ひょいと出て来た(記事が)のは、
「観ておいでよ」「ユ~行っちゃいなよ」
と、幸運の女神様が言った気がしました。

今宵はいつもの所用がございまして、
24時30分に任務終了。(^O^)/
それからエブリイさんで、
夜のハイウェイを飛ばしまして、
(跳々~軽貨物~体感速度のみ~(笑))
夜景の綺麗な道中の東京港臨海道路より、
ジェイウィンド東京湾臨海風力発電所
東京風ぐるまの漆黒の回転に感動しつつ、
東京ゲートブリッジはお上りさん状態で、
25時30分に若洲公園付近に現着です!

でかぁ・・・もう見てるだけでドキドキ。
風力発電の風車は本当に格好いいと思う。
構造物として知的で力強く魅力的かなと。

残念ながら、今は稼働停止中なんですが、
先程稼働中の風力発電所を望遠できたし、
夜の巨大風車の回転を想像してみました。

スマホでズームしたら航空灯がピカッと。
ちょっと宇宙空間っぽい感じに見えます。
来年度の取壊し後に太陽光発電新設より、
僕的には風力発電を once again !
_(_^_)_ なんて思ってしまいました。

余談ですが、
反対車線でパトカーがじっとしています。
何やってんだろ(どっちがだよ)・・・。
( ´艸`)

27時にご帰宅・・・眠すぎだぁ・・・。
奥方様に「只今帰りました」と帰宅報告。
酒も飲まずに爆睡いたします。
(^.^)/~~~

江東区HPより若洲風力発電所の
スペックを転載させていただきました。

メーカー ノルデックス社(ドイツ)
定格(最大)出力 1,950kW
年間想定発電量  270万kWh
高さ       100m
ブレード(翼)の長さ 40m
発電し始める風速(カットイン風速)
         毎秒4m/s
定格出力で発電する風速
         風速12~25m/s

戸吹城跡(二条城址)

5/3
左入城址を後にして、戸吹城跡に向かう。
別名は二条城・根小屋城とも言われます。

八王子市側より、案内板に誘導され、
16:10頃に現着。
やはりというか駐車スペースはなし。
( ´艸`) 昔来た時もそうだった~。
他人様の家の前に置くわけにもいかず、
小川の橋の上に置かせていただきました。
_(_^_)_
せいぜい3機が限界でしょうか。
(車は置く場所が見当たらず)

裏庭の通路のような散策路を歩いてゆく。

地図下側の建設会社から北に歩き、
そこからすぐに城域に入ります。

山歩きに不慣れな私のような人は、
特に単独ではあきる野・八王子市境まで。
(地図上の点線まで)
その北側は45度~80度の断崖で、
比高差は70mぐらいはあります。
北曲輪に繋がる尾根は崩落しており、
散策で行くのは極めて危険で無謀です。

北曲輪は北に向かう四本の尾根の付根で、
そこから南に逆T字形の縄張のようです。

東京都教育委員会の『東京都の中世城館』
という本によると、
西へ向かう市境の散策路は古道で、
この古道に対応して築かれたようです。
(縄張図は本に出てるけど転載禁止で
 ざっくり航空写真のとおりですね)
自然の地形を巧みに利用しつつ、
幾本もの土塁や空堀で防御されています。
築城時期は武田軍が侵攻した永禄12年
(1569)頃との説があるようです。
少数の守備兵で敵を抑える目的の城で、
ごく短期間の使用であったようです。

城跡中枢へ向かう一本道。

尾根南側の掘平地。

案内板は地図上の二条城表記の辺りです。

小さなお宮が祭られています。

お宮裏は土塁です。

土塁の北側はV字の空堀で、

その向こうは断崖絶壁です。

遠くにあきる野の街並みが望めます。

木々の向こうの斜面は80度はあるよ~。
その上の細尾根は北曲輪に繋がっている。
落ちたら・・・誰も通らない・・・。

あきる野側に移動します。

サマーランドの駐車場から城跡を望む。
北曲輪の尾根の形状がわかります。

秋川の北側より戸吹城跡の全景を望む。

戸吹のジモティーの人々は、
北条さんの厳しい命令で、
築城に総動員されたんだろうなぁ~。
でもって武田の来襲に備えて、
その後の上杉・前田来襲はどうだったか。
民百姓は辛いよね。

乱世で生きるのは大変だ・・・。

ふとそんなことを想いながら・・・。

左入城址

5/3
昭島の用事が済んでコンビニ休憩。
コーラを飲みながら城跡を検索してみる。
場所柄、滝山城跡関連がほとんどだけど、
左入城址の書き込みが目に入りました。
ムラウチのところに城跡が・・・?
行ってみるか・・・ということで、
15:40頃に現着です。

書き込み通りに立派な石碑があります。
この場所に左入城があったのですね。
当時と今では道が全く違っています。
道の芯には旧道があると思いますが、
幅が城跡を飲み込むばかりに広がって、
高速道路のインターや敷地の掘平で、
異次元のスケールで造成されています。
地山の基本的な山塊は残っているわけで、
旧道、河川、集落、旧地名、伝承、
自然地形他からの想像はロマンありです。
小さなお城の歴史は謎に包まれており、
築城者、主の変換、合戦の記憶、廃城、
現城主の村内氏の創業(築城)を経て、
左入城は生きていると思いました。

黒御影の立派な石碑(高いゾ~)です。
ピカピカで反射しちゃって読みにくい。
(従業員が拭いているんだろうな)
サトちゃんやニトリや俺も写ってるし。
下に碑文を転写しました。

左入城跡
往古この地に左入城があった
中丸淡路守の居城であったと伝えられている
左入城は東西約四百m、南北百七十五mの卵形をなし、東南及び西に幅四〜五十m、深さ約九mの空堀を巡らして、周囲は凡そ二千mに及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられてきた
また、これより西方五百mの所に淡路守居城の折、調馬の用に供した馬場の址がある
尚、近年発見された、伊能忠敬の日本地図にも この地を「左入村中丸」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明記されている
右の史実を後世に伝えるために、この碑を建てる
平成十七年五月
 村内家第十七代当主 村内道昌

この石碑のおかげで、
こういう城跡もありだな・・・と思える。
ムラウチは現代の戦の城ともいえるかな。
なんて、ハイボールを飲みながら・・・!

柏原城跡(上杉砦跡)

4/29、大宮方面へ赴く。
帰路の山並みに城跡の気配を感じた。
集落の統治や防衛拠点に絶好の山容かな。
一寸コンビニ休憩で、付近の城跡を検索、
ビンゴ、やはり近くに城跡があるようだ。
せっかくなので、立ち寄ってみようか。
この行き当たりばったり感が俺なのだ。
スマホの検索地点をナビに登録して、
郊外の住宅街の裏山を目指します。
ほどなく現着、15時頃っす。

駐車場は付近に見当たらず・・・、
仕方なく往時の水堀跡?の水路の橋上に、
スカーレット号を駐機しちゃいます。

上図の下側から登ってゆきます。

二ノ郭と本郭の間の空堀を進む。
昔は深くて急で高い土塁だったでしょう。
小さいけど、素晴らしい空堀ですね。
突き当りを右へ、本郭を散策しました。

甲冑を着た武将たちがここに居たんだね。
夢中で生き夢半ばで討ち果てた人の痕跡。
郭の掘平地や土塁を見ていると感じるね。
よく今に残っているものだと感心します。
城とは、土で成るものですね。

二ノ郭には稲荷社が祭られていました。
お参りさせていただきました。
小さな城跡は気軽に行けるのがいい。

小さな城跡の全景・・・。
今は鬱蒼として木々が生い茂ってるけど、
いつも思うけど、 兵どもが夢の跡、
人が生き死にを賭けて戦った場所。
城跡は貴重な文化財で、観光資源ですが、
当時は関係者以外は立ち入り不可の、
最高機密の防衛拠点だったんだよね~。

ふらっと僕みたいのが探索できるなんて、
いい時代になったものだ。
城跡で月夜に琵琶でも弾けたら風流だな。
・・・怖いか・・・( ^ω^)・・・。