給湯器 壊れた(T・T)

12日の深夜に給湯器が壊れた・・・。
SLの如く黒煙を吐いて・・・・・・。
(火事で通報されかねないレベル)
思えば予兆がない訳でもなかったけど、
この季節に突然壊れると困ってしまう。
お湯も出ないし、お風呂にも入れない。
工務店経由で設備の業者に連絡すると、
古い機種なので修理は出来ないらしい。
(火を使うし無理な修理は危険か)

排気口は煤で真っ黒になっていました。

思えば20年間も頑張ってくれました。
温かいお風呂や食器洗いや手洗いも、
給湯機があってこそなんですよね。
壊れて初めてその有難さが実感できる。
_(_^_)_

後継モデルを注文しようと思ったら、
半導体の関係で入荷日が未定・・・、
一週間後も入るかわからないとのこと。
まじか・・・だよな・・・どうしよう。
石油給湯器CHOFU系は諦めました。
(燃料コストは灯油の方が安い・・・)

ガス給湯器のNORITZなら在庫有、
とのことで20号給湯タイプを選んで、
翌日の午後に交換していただきました。
( 原付1台買える値段(´;ω;`)ウゥゥ )

しか~し、お風呂ってありがたいねぇ~。
夜と深夜の二回入って、満喫しましたよ。

いい湯だな~♡
お値段以上 湯とり
(⋈◍>◡<◍)。✧♡

鶴岡八幡宮 参拝

1月5日の6時過ぎに家を出て、6時21分発の電車に乗り、JR青梅線→JR南武線→JR横須賀線と乗り継いで、鎌倉駅に8時21分に到着し、駅前を真っ直ぐ通過して参道を歩いて8時35分に鶴岡八幡宮に到着。
ドア to 境内まで2時間30分、電車は渋滞も関係なく、なかなか早いものですね。
三元日と休み明けの間の早朝は、電車も神社も空いていて、密を避けられ待ち時間のロスもなく。

大石段を登り、本宮(上宮)で参拝し、丸山稲荷社で参拝し、お札をいただき、おみくじを引いて(小吉)、三の鳥居の甘酒(サントリーじゃん( ´艸`))で暖を取った後、豊島屋さんの『鳩サブレー』を買って、お昼前に帰宅するのがいつものパターンです。

来年は、混雑の真っただ中で、年越しをしてみたいものですよね。

歳だし一晩中外で過ごすのは厳しそうだし・・・鎌倉界隈で一泊しないとダメだろうなぁ・・・それもいいかもね!

宮寺氏館跡

12/10

朝イチで母の住まいに向かい、母の車(ワゴンR)を預かって、入間市寺竹のミツミタイヤさんで、ホイル込みでスタッドレスタイヤに交換してもらいました。

165/55 R15 を、

155/65 R14 へ インチダウン。
BLIZZAK VRX2 にしときました。

せっかく入間に来たんだし(笑)、さて、近くに城跡はないかなぁと検索。
なぬ?・・・宮寺氏館跡ですと・・・。
よし、ちょっと行ってみようか!

10:40頃、着いた。
お寺さんをひと回りして駐車場所を探す。
法事をやってるっぽかったので、公園前にちょい置かせていただきました。

宮寺氏館跡(入間市宮寺)

現在は西勝院というお寺さんで、宮寺氏の菩提寺とのことです。

入間市HPより宮寺氏館跡実測図を転載。

入間市HPより宮寺氏館跡解説文を転載
市指定文化財(史跡・昭和59年7月25日)
 宮寺氏は、武蔵七党のひとつ村山党(平姓)の武士で、村山頼家の二男家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって居館を構え、宮寺氏を称したとされる。その後、鎌倉幕府滅亡時には加納下野守(しもつけのかみ)が、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたといわれ、現在は西勝院(さいしょういん)の境内地となっている。
 外郭約130m四方で、内郭の堀跡・土塁の一部が残存している。土塁の外側に沿って、狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていた。周辺には「城ノ腰(しろのこし)」・「城東(しろひがし)」・「的場(まとば)」・「的場後(まとばうしろ)」という小字があり、館に関係のある地名と考えられる。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が出土している。

とのことで、この館の主は、
宮寺氏(平安末・1100年代末)
加納下野守(~鎌倉末・1330年代)
〇〇氏(南北朝・1330年代~)
〇〇氏(~戦国時代・1500年代末)
〇〇氏(~安土桃山・1600年代初頭)
狩尾氏(江戸時代~・1600年代初頭)
伊濃氏(~江戸時代・1600年代初頭)
の居館であったということかな?
範囲は4~500年の期間ですから、数え切れない人達が関わっていて、想像すると気が遠くなりますが、館を巡る人生の攻防は興味深いです。

館の主の移り変わりを7行で書いたけど、数十年の人生でもいろいろあるのに、数百年でこれっぽっちの記録など、何もわかっていないのと同じで、記録に残っていない人々の営みの痕跡が、土で成る城に残っているように思います。

本堂前にてお参りさせていただいた後に、遺構の中央土塁を見学します・・・凄い。
今はなだらかになっていても、無言の存在感がある。
往時の土塁はもっと高く、空堀は深く、険しかったものと推察いたします。

現地解説板より

館南西部の半壊した土塁も残っています。

館西側の水堀は、現在の水路とのことで、往時は水堀内側(右側)に土塁があったと考えられているようです。

館跡北東部の別の案内板より
史跡宮寺館跡
 桓武天皇九代の孫 平頼任は、今からおよそ九百年前、村山に住んで武蔵七党の一つである村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心にひろがって大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府の成立に大きな力となったことは、広く知られているところである。
 村山(平)頼任の子 頼家に四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名のり、三男家範は入間市の金子に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして、二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称して、この地に居館を構えたのである。
 源頼朝、同義経の家来で、源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が、当時の史書に見えるから、十郎家忠らとともに活躍したのであろう。
 すでに八百年以上も昔のことであるから、この居館跡の全体の姿を知ることはむずかしいが、西勝院境内の東部に残る長さ約三十メートル、高さ約二メートルの土塁と空堀は明らかに当時の遺構の一部で、さらにその土塁のつづきは、昭和二十七年ころまで、北隣の荻野家の屋敷の北側約百二十メートルにわたってのこっていたのである。
 元弘三年(西暦一三三三)に鎌倉幕府が滅びたころには、加納下野守なるものがここにいたと伝えられ、江戸時代から狩尾氏、のちに伊濃氏(猪尾、井野尾、伊野尾とも書いた)がいたが、この間のくわしい事情はよくわからない。
 以上宮寺館跡の概略を記して見学者の参考に資するものである。
  昭和五八年九月十九日
   入間市教育委員会
   宮寺郷土を知る会
   入間市文化財研究同好会

とのことです。
こりゃぁ・・・親と四兄弟の居城を巡るようだね(笑)。
こうして、偶然訪れた城跡から、広がってゆくんだよね!
僕の城跡好きは、小学生の頃に釣りの帰りに友人と迷い込んだ(笑)滝山城跡に始まります。その子ども時代の興奮が今も一緒なんだよね・・・進歩してないっす。
( ´艸`) 子供オジサンですから・・・。

13:50頃に帰宅。
自宅と母の住まいとの往復は、弦月号(Kawasaki KSR110)で、快走いたしました。
子供オジサンの愛機ですよ!
来週は、オイル交換と自賠責の更新です。

母の家の解体

10/22 10:14 小物の搬出など。

11/11 9:10 引っ越し。

11/21 12:18 最後の雄姿
今までありがとうございました。

11/22 7:33
カーポート、縁側、庭木や鉢がなくなる。

11/22 11:32
内部から分別して解体しているようです。

11/23 10:37
外部はあまり変わらず。ですが、

内部は内装や断熱材は既になく・・・。

11/24 12:02
建物横に仮囲い骨組みが設置され・・・。

11/26 8:00 重機で解体中。

11/27 7:44 上物は既になく。

残るのは1階床と基礎のみ・・・。

11/29 7:40
基礎がなくなり塀を残すのみ・・・。

11/30 7:41
塀もなくなり、整地と重機搬出を待つ。・

12/1 7:38
きれいに整地され、解体工事は完了です。
区画整理とはいえ、やはり寂しいですね。
中古住宅を僕と祖母の共有名義で購入し、
晩年の祖母、母親、弟、
クミ(メス犬)、ゴン(オス犬)が、
お世話になった家ですから・・・。
僕自身は住むことはなかったけど、
一時期は住所を置かせていただいたり、
僕の本籍地はここですし、
この家のおかげで、僕は自由に生きれた。
めぐり合いも含めて感謝しかありません。
ずっと覚えておこうと思って、
更地に戻る姿をとどめました。

この土地と出会った新しい利用者さんが、
有益に活用されることを心から願います。

大石氏館跡/立川氏館跡

11/28
PorcoRosso号(DAHON K3)で出撃!
久しぶりの自転車で、ダイジョブかな?
今日はバイクより自転車の方がいい。

13:00 大石氏館跡(羽村市羽東3丁目)があったとされる付近に到着。

大石氏は、信濃国の大石郷発祥の氏族とのことで、1351年の笛吹峠の合戦の戦功などで1356年頃に入間や多摩に領地を得て、多摩に移住し各地に城や館を造り、一大勢力を築いた氏族のようです。
一番有名な大石さんといえば赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)ですが、遠い親戚になるようです。

設置されている案内板より。

館跡は、江戸時代の玉川上水の掘削、大正時代の取水工事(羽村-山口軽便鉄道含む)、奥多摩街道の拡張、羽村大橋の架橋工事や擁壁工事等で、旧状を留めていません。
館の選地として、案内板にあるように、鎌倉街道の多摩川渡河地点を抑えつつ、眺望もよく断崖に面した防御性のある当地が選ばれたのだろうと想像します。
今も、奥多摩街道、羽村大橋、多摩川、玉川上水、多摩湖への導水路が交錯する要衝です。

案内板の薄い黄色っぽい線が旧鎌倉街道とのことで、羽村東小を南北に突っ切り、奥多摩街道のS字の東側を沿って羽村大橋北端の西側を下り(遠江坂)、玉川上水を突っ切り、現住宅街を抜けて裏道のT字路を斜めに突っ切り、多摩川を渡っていたようです。

大石氏の館があった位置・・・北は東小を含み、南は段丘上端、西は旧鎌倉街道、東は羽村大橋の延長付近辺りかなぁ・・・狭いかなぁ・・・などと、案内板や空から見た写真を見つつ、妄想してみます。
ほらほら・・・じ~っと見てると、土塁や空堀や虎口が見えてくるでしょう。
( ´艸`)

付近の小さな神社の案内板です。

東小プール南より、旧鎌倉街道が下ったと想像する川崎西公園の斜面を、奥多摩街道S字カーブ方向へと見る(真南向き)。
この左側に館跡があったのではと妄想・・・。

旧鎌倉街道が下る川崎西公園の斜面を西側から見る。
道は奥多摩街道のS字カーブ。
この斜面の向こう側に館跡があったのではと・・・。

有力な古文書や地下遺構でも出てこない限り、特定は難しいでしょうね。

多摩サイを下りま~す。えっほ、えっほ、
なかなかのサイクリング日和ですよ~。

対岸の山並み・・・高月城跡を望む。

対岸の山並み・・・滝山城跡を望む。
逆光で眩しいけど、空模様はダイナミックでキレイだなぁ!
神降臨って感じだね・・・お天道様には叶いませんや。
近いうち、滝山&高月城跡、久しぶりに探訪したいと思います。

15:30 立川氏館跡(立川市柴崎町4丁目)に到着。

館跡に建つ普済寺のHPを見たら、普済寺は立川氏の庇護のもと1353年に館の一角に開山し隆盛を極めたが、1430年頃に立川氏の没落とともに寺は荒廃、1500年代に入り高幡城主の庇護のもと寺は面目を一新したがその後に衰退し、1550年代に立川氏が再び勢力を挽回して大檀那(失地回復・館の主に大復活)となったが、1590年の豊臣軍の攻撃で焼失(落城)したとのこと・・・山あり谷あり、戦国の世ですね。

案内板より

ざっくり館の範囲は、西はJR中央線、南は残堀川、東と北は写真の端ぐらいかなぁ。

別の案内板によると

立川氏館跡(都旧跡)⇒(都史跡)
立川を治めていた豪族・立川氏の館がこの普済寺のある場所にあったと伝えられている。立川氏は、武蔵七党系図によると、西党に属し、鎌倉時代には、幕府に仕え、戦国時代には、関東を制した後北条氏に仕えた。その後、天正十八年(一五九〇)北条氏照の居城である八王子城落城によって、立川氏は浪人となった。後になり、水戸藩士として水戸に移住した。現在でも、当寺の本堂前と裏側墓所に三十六メートル程の土塁が残っている。

首塚
立川宮内少輔宗恒の首塚といわれているが、これについては、江戸時代から二つの説がある。一つは『武蔵名勝図絵』の、宗恒の墓を後になってここに移したものであるとする説。もう一つは『江戸名所図会』の、立川合戦の戦死者の首塚で、宗恒の墓所は不明であるとするものである。
その後、明治十四年にここから六十余枚の板碑が発掘された。
現在、首塚の上には、星梅鉢紋の石板が一枚立っているが、立川氏の墓の石扉の二枚の内の一枚とみられる。

残存遺構の土塁の一部。

残存遺構の土塁の一部。

残堀川の遊歩道から館跡の崖を見る。

対岸より館跡の崖を見る。
当時は天然の崖だけど、凄い落差だよね。

※(おまけ)電車より館跡の崖を見る。

前記空中写真の上部緑地にある土塁の一部といわれている盛土。
貴重な遺構を大切に残してほしいと願います。

16:15 薄暗くなった頃、お腹が空いてきました。
立川市富士見町の奥多摩街道沿いのふじみ食堂。
一度来てみたかったんだよね。

レバニラ炒め定食、ご馳走様でした。

17:55 帰宅。
久しぶりの自転車、お疲れで~す。
少し身体は冷えちゃったけど楽しかった!

愛宕山城 / 石神井城

11月19日

道中にて。銀杏並木が美しい。

仕事で、小平市花小金井を訪問しました。
時間が出来た、付近の城跡を探索するぞ。

13時45分頃、愛宕山城跡(練馬区上石神井3丁目)に到着。

遺構は特に見当たらず・・・。
もしやと思ったのは、早稲田高等学院敷地内の北東側、石神井川沿いのRC土留上部の法面が名残りかな?外から見ると・・・と思えた程度・・・違うかもですが。
調べた限りでは城(砦)の縄張り等は確認できてないけど(区の教育委員会の史記等にはあるかも)、小規模な平山城といった規模でしょうか。
城の由来は諸説あるようですが、元々は北東約600mの距離にある豊島氏の石神井城の支城で石神井川や南方を監視していたが、1477年に太田道灌による石神井城攻めの際に奪われて、城攻めの陣地として使用された、という説が有力なのかな?と思いました。
平成4年に発掘調査が行われ、城跡(砦跡)は300~400m角で、コの字型の堀に囲まれていたようです。
石神井城の落城後に廃城となったようです。

14時25分頃、石神井城跡(練馬区石神井台1丁目)に到着。

北方より、三宝寺池越しに石神井城跡を見る。
現在は練馬区民の憩いの場である石神井公園の一部として、550年前の豊島氏と太田氏の死闘は忘却の彼方に忘れ去られ、まさに兵どもが夢の跡となっています。

案内板によると、

石神井城跡
 石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父平氏で、南北朝時代には、石神井群を領有していました。
 室町時代に、城主の豊島勘解由左衛門尉(泰経)は、関東管領の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために、顕定を援助していた上杉定正の重臣である江戸城主の太田道灌により攻められ、文明九年(1477)四月、落城したと伝えられています。
 石神井城は、三宝寺池と石神井川の低地に挟まれた舌状台地にあります。その周囲は空堀や土塁でめぐらされており、今でも土塁と空堀を見ることができます。
 のちに、落城によって照姫が水中に身を投げたという物語が作られ、語り継がれています。
※東京都の史跡に指定されています。
 令和三年(二〇二一)三月

 練馬区教育委員会

とのことです。

案内板によると、

石神井城 主郭跡
 中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三宝寺池側は崖で、残る三方には堀と土塁が築かれていました。内部(内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられている場所です。
 平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査では堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。堀は調査地点で幅約12m、深さ約6mで、断面U型に関東ローム層(赤土)を掘り下げ、底面を約3m幅で平らにした「箱堀」であることが分かりました。水が溜まっていた痕跡が無く、空堀です。また、掘り上げた土は黒土を混ぜて少しずつ固めながら内側に盛上げ、土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると現在より約3mも高かったと推定されます。堀と土塁を合わせると比高差10m程となり、堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半から15世紀に作られた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできませんでしたが、柱穴が発見されており、小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
 調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内部建物で居住していたことの可能性を示唆しています。

 平成15年11月
 東京都 練馬区教育委員会

とのことです。


城は道楽でなく、必要に迫られて造っている訳で、戦国時代というのは、武将はもちろん民百姓も含めて、現代から想像するとその厳しすぎる世界は・・・想像を超えていますね。

お腹が空いちゃった ( ´艸`) 。

16時25分頃、遅い昼食で大好きな天津丼と餃子をいただきました。

17時20分頃、帰る途中で横田基地の青い誘導灯に誘われて。

百草城/高幡城/川辺堀之内城 散策

11/3(木) 11:45 頃、
百草園駅前のスーパーで昼食を買って、
店の軒先のベンチで お昼 いたしました。
ポカポカ陽気で気持ちいいですねェ~。

ベンチ先客の老紳士から、
「あれってカブなの?」と尋ねてこられ、
「ハンターカブです カブの兄弟ですね」
と答えたら、以前カブに乗ってたらしく、
「自動遠心クラッチとシフトが面白い!」
って、カブ話しで盛り上がりました~。
巡回バスが来た。爺ちゃん元気でね~!

12:30 頃、百草城跡(日野市百草)へ。

百草城は地域の郷土史家によって1980年代に発見された城跡で、鎌倉~戦国時代にかけての城のようですが、詳しいことはまだわからないようです。
新田義貞率いる倒幕軍と鎌倉幕府軍が戦った分倍河原・関戸合戦(1333)で、城跡内に位置する松連寺(現在の百草八幡宮・京王百草園にかけて存在した)が焼け落ちているとのことで、幕府側陣営の城であったという説もあるようです。

城域内の百草八幡宮にお参りします。
裏の散策路を歩きながら、
地形の痕跡より当時の姿を想像してみる。

樹齢数百年の圧倒的な椎の木さんが凄い。

城域は、
百草八幡宮、京王百草園、松連庵と
広範に及んでいるように思われました。
なので京王百草園にも入場してみます。
(¥300)
茶会が催され、美しい着物姿の老婦人、
梅の老木も見事でした。

京王百草園の最高所・・・ということは、
百草城跡の主郭に到達かな?
生い茂った木がなければ眺望に秀でて、
北岸は急斜面で、弓、槍、刀の戦闘では、
極めて有効な陣地(城)だと思いました。

ジェラート屋さんに寄ったら休みだった。
( ´艸`)

13:45 頃、高幡城跡(日野市高幡)へ。

高幡城の詳細も不明です。
1455年の第一次立河(立川)原合戦で、関東公方の足利成氏に敗れた上杉憲秋が高幡城下で自害したとのことで、高幡不動の境内に墓所もありました。
1504年の第二次立河(立川)原合戦で、上杉朝良・今川氏親・北条早雲 VS 上杉顕定・足利政氏との多摩川付近での戦いでも、拠点となったとの説もあるようです。
戦国時代に入ると、北条氏照の配下として、平山氏が城主であったようです。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、北条氏旗下の高幡十右衛門の居城で、豊臣氏旗下の前田利家・上杉景勝の軍勢と戦ったと伝わるそうです。
縄張りは自然地形を生かしたもので、築城年度は室町時代以前で、戦国時代においては小規模な地域の城で、大掛かりな改修はされなかったようです。

高幡不動の裏山が城跡で、比高差は約50m。
田中祥彦著:多摩丘陵の古城址を片手に、
高幡不動からの散策路を登ってゆくと、
尾根上の曲輪群に到着しました。

生い茂った木がなければ眺望に秀でて(東京タワーも見える)渡河地点を押え、急斜面や堀切で、防備を固めたようです。

高幡城跡で検索したら、心霊とか落ち武者のワードが出たけど、特に何も感じなかったけどなぁ~。
戦国時代の城跡は戦いの陣地だから、兵どもが夢の跡、命懸けで戦った場所で、逆に僕はロマンを感じるんですが・・・!
ですが陽が落ちると一変ちょっと怖いよ。
my後頭部は 落ち武者 に近いかなぁ?
( ̄m ̄〃)ぷぷっ!

14:30 頃、川辺堀之内城跡(日野市川辺堀之内)へ。

川辺堀之内城の詳細も不明です。
付近一帯は武蔵七党の西党の支配地域で日奉氏が治めていたらしく、室町時代には高麗氏が領有し、戦国時代には北条氏旗下の地域の武将の居館があったとの説もあるようです。
中世には川辺十騎衆というのが存在したらしく、付近には小土豪が割拠し、それらの館が点在していたようです。
多摩川・浅川南岸を制圧してきた後北条氏に対抗して、扇谷・山内上杉氏が構築した、『高幡城・平山城』の監視目的の砦であったという説もあるようです。

台地の南岸下から見た竹林が城跡です。
小さなお城は屋敷規模のようです。
戦国時代以前の地域の名士の居館かなぁ?

城跡へのアクセスはこの辺り。
散策路を歩くと右手に地主の墓地がある。
私有地っぽいので散策路のみを歩きます。

散策路から南向きに曲輪方面を望むと、城跡らしい雰囲気は感じられますね~。

台地南岸に立てば、眺望はよいでしょう。

百草城跡、高幡城跡、川辺堀之内城跡も、ネットや本で曲輪の配置図は見れるので、
気になった方は是非検索して見て欲しい。
苦労して(楽しんで)書かれた各絵図は、一見の価値があると思いますよ。

17:00 頃に一旦帰宅。
弦月号さんで、ちょいと散走。
( Kawasaki KSR110 )
少し肌寒い風が気持ちイイですねぇ~。

日常から解放された一寸一息・・・かな。
最悪のことを考えつつ楽観的にいくって、稲盛和夫さんの言葉だったかなぁ・・・、そんなことを思いつつ、頑張りましょう!

奥多摩~小菅~夕焼け

10/23(日)
8:00 起床(予定より寝坊・・・笑)、
8:30 出撃だぁ!
CT125・ハンターカブスカーレット号発進!
一路奥多摩方面へ!
吉野街道をスイスイスイ~とゆく。
交換したマフラーの音は品よく静かめ。
でも少しだけ排気音が力強くなり、
軽量化もあって気分は軽いですね~。
以前よりも上り坂は元気になったかな!

9:25 奥多摩湖畔にて。水面が美しい。

9:30 大麦代駐車場に到着。
バイクも車も自転車も、賑やかです。
しかしなぁ~、思ったのは・・・、
バイクはおっさんが多すぎ・・・、
で、そのうちの一人ですが・・・。

いつものアメリカンドックを食べま~す。
この味・・・ここじゃなきゃ食わないな。
( ´艸`) 食べたくなるから不思議だよ。
しばし休憩、モトコンポの凄いのが来た。
9:50 出発、小菅方面に行ってみよ~!

10:20 道の駅小菅に到着。
たぶん初めて来たぞ。
高そうなマシンがたくさん。
愛機ハンターカブは庶民的な乗り物です。

きのこうどん とやらを食べてみよう。
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)
ウンウン♪
空気もいいし、おいしかったよ~。

お土産も買ってみた。
一つは俺、一つは嫁、一つは娘。
俺のが一番高くな~い?・・・許せ。
11:10 出発。藤野方面に行ってみよ~。

ちょいと脇道にそれてみた。

上野原丹波山ラインを快走。

遠くの山並みが綺麗だぁ~・・・。
見晴らし最高だね!
ちょっと住んでみたいと思った、別荘で。
先立つものが (ヾノ・∀・`)ナイナイ 。

棡原藤野ラインを快走!

ちょっとイイ感じの神社発見。
通り過ぎたけど戻ってきました。
引き寄せられたって感じですか。

石楯尾神社さん、小高い杜がいいっすね。
参道脇の案内板を読ませていただきます。

その脇の読みやすいバージョンのも!

コラ武田くん、何してくれんの、壊して。

お参りさせていただきます。
立派な本殿ですなぁ~。

おみくじを引かせていただきました。
_(_^_)_。

その脇のご神木も凄い杉の大木です。

読んで吹き出しちゃいました。
夫婦杉と書いて くっつきすぎ ♡
ですって・・・羨ましい杉ですなぁ~!
うちらなんか、
夫婦杉と書いて はなれすぎ (T・T)
とかかなぁ~ ( ´艸`) ホホッ。

ふり返って、
これが案内板にあった神楽殿ですな。
真ん中を参道が突っ切っていて、
面白いプランです。
下から上がってくると山門、
本殿側から見ると神楽殿、
高低差を上手く使っての巧みな設計。
しかも舞台の間口が6間も無柱で、
凄い太い丸太の大梁が入っていて、
木造の伝統工法でこの構造設計は難しい!
この建物を考えた昔の棟梁は凄い・・・。
匠の技に想いを馳せ、神社を後にします。

陣馬街道を快走!
久しぶりの和田峠をあっさり通過。

12:45 夕やけ小やけふれあいの里へ。
寄るのは初めてだと思う。

名物の マスバーガー をいただきます。

御写真がいまいちでスイマセン。
お味はと~っても美味しかったです。
出てくるのが遅いと思ったら、
注文してから揚げているようです。
アリガト~_(_^_)_、最高!

店員の若者の笑顔にも癒されました。
(特に若い女の子の笑顔に弱い・・・)
でもね~生命力って大切な魅力ですよね。
赤ちゃんなんてさ、ほんとカワイイよね。

若さはお金じゃ買えません。
って、言ってる時点でおっさんケッテ~!
赤ちゃんの笑顔のパワーは天下無双です。
孫って、カワイイだろうな~!

途中で実家に寄ってから、
14:20 帰宅しました。
119kmほど、走りました。

追伸、石楯尾神社の おみくじ で、失物 出る 高い処 とあったのですが、散々探して見つからなかった重要書類が、偶然?にも高い処から出てきました・・・すげ~御利益に感動しちゃいました。
_(_^_)_ ありがとうございます。

赤いカブがやってきた

仕事関係の用向きで横浜方面へ赴く。

ビルの窓から見下ろす景色は猛暑っすね。

午後には帰宅して、
サービスマニュアルとヘルメットを持ち、
バイク屋さんへ徒歩で向かいます。

20分ほど歩いてバイク屋さんに到着。
店主さんにサービスマニュアルを渡し、
弦月号(Kawasaki KSR110)の入院申込。
入院は8月末頃になりそう・・・。
店内にはトップガン好きなオーナーの、
(店主さん曰く)
赤い忍者が整備中でございました。
すげえカッコイイですねぇ!

そして、お支払いを済ませて、
赤い機体を受領しました。
あきる野市草花のPeaceSさん、
今後ともよろしくお願いいたします。

我が家に 赤いカブ がやってきました。

鶴岡八幡宮 参拝

1/3、05:30過ぎに家を出て、

05:52の電車に乗り、いざ鎌倉。

前から気になってるけど広告が寂しいね。

07:53、鎌倉駅にに到着。

二の鳥居の狛犬様もマスク着用です。

三の鳥居、朝イチは空いていますね。

大石段から見上げる本宮も空いています。

感謝を祈念してお参りさせていただきます。

今年のお神酒は販売のみで、その場で飲めませんでしたので、いただきませんでした。

代りというわけではありませんが、三の鳥居わきの出店で、いつもの甘酒をいただきました。
身体が暖まって美味しいんだよね。

鳩サブレーの豊島屋本店もまだ営業時間前で、開店まであと20分あるけど・・・今年はスルー。

鎌倉駅の周りを散策していると、西口に記憶に残る広場が・・・ん?・・・そうだ、タイヨウのうた(2006年公開 小泉徳宏監督作品)でYUIさん演じる雨音薫が弾き語りをしていた広場だ!と、思い出しました。

ここも、鎌倉の観光名所じゃないか。

帰途の途中、立川駅ビルで肉まんを買って、午前中には自宅に帰りつきました。

電車って速いね~。

そうそう、本日の車中の友は、永守重信(日本電産会長)著、『成しとげる力』でした。
この親父・・・やはりただもんじゃない。