洗面台シャワー水栓交換

洗面化粧台のシャワー水栓が折れ、レバーもガタガタ・・・築20年ですから、仕方ないですね・・・プラスチックが劣化していたとはいえ誰だよ折ったの・・・小娘曰く「お父さん折れちゃってるけど・・・」でしたね(笑)?

青梅のカインズで見繕いました。

工事代は7500円に値引いてくれました(キャンペーン)。

3/31 のPM、綺麗に取りつきました。

伝藤原秀郷居館跡ほか散走!

1/14 11:40頃、Dwaf galaxy号 (BS スニーカーライト SNL163)で自宅を出発。
寒いけど、いい天気だね。

多摩サイ左岸の羽村取水堰0キロポストにて。
(たまリバー50キロ)
のんびり気ままにマイペースで走ろう。

寒波の影響か、向い風が強い~~~。
服装はどのくらいの負荷で走るかによって変わるけど、本気で走るなら専用ウェアで、のんびりペースなら気楽に軽くて風を通さない暖かい格好でいいんじゃない。
オイラは、下は厚地の黒のレーパン(パールイズミの昔買ったやつ・おしりにパッド入り)、上は厚地のヒートテックに息子が着古したユニクロのパーカーにワークマンの防風ヤッケ(笑)でした。

向かい風が強いこんな日は、人出が少なくて、サイクリストにとっては空いていて走りやすい一面もある。
ランナーや歩行者と交錯するときは余裕をもって前後左右の安全確認をして、広いとはいえない多摩サイを快適に利用したいものですね。お互いにありがとうの合図は嬉しい。
走行ペースは暖機運転から巡航速度へ徐々に自然とペースUP!

12;45頃、JR中央線多摩川橋梁に差し掛かった時に、先週の右岸を思い出したので寄ってみる。

明治22年(1889)架橋の橋脚と橋梁。築135年の貴重なものです。

13;00頃、日野橋を潜って立川公園陸上競技場の付近にて、中央の遥か彼方に富士山が見えます。

まさにサイクリング日和。

時々止まって付近の史跡を検索、僕好みの中世の戦史ものを探してみる。

沿道の東屋や公園のベンチでお弁当を食べているサイクリストが多いと思ったら・・・そういえば、起きてから何も食べてなかった・・・そろそろ電池切れ(笑)です。

関戸橋~京王中川原駅界隈で食べ物屋さんを探してみるもお店が少ないようで・・・。
13;35頃、劉記(府中市住吉町)さんに入ってみました。

頼んだのはやはり大好物の天津丼。

たぶん中国系の方のお店で、本格的な街中華は具沢山でとても美味しかった~!
配膳のお姉さんも愛想よく可愛らしくてグ~ッでした!
メニューに天津丼があると必ず食べてしまうオイラです。
(好き嫌いのあまりないオイラの数少ない大好物)

チャージ完了、行き先を検索っと。
(この無計画行き当たりばったりがソロでは楽しい)

14;05頃、分倍河原古戦場碑に寄ってみる。
時は中世・鎌倉時代の終わり、新田義貞軍VS北条泰家軍の戦いです。

案内板によると

東京都指定旧跡
分倍河原古戦場
所在地 府中市分梅町2-59新田川分梅公園
指 定 大正8年10月
 文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は破れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。
 平成10年3月建設 東京都教育委員会

※文永・弘安の役 ⇒ 蒙古来襲

栄枯盛衰ですな・・・。

14:20頃、首塚古墳(府中市美好町3丁目)に寄ってみます。
正式には、高倉古墳群27号墳というらしい。お参りさせていただきました。
東西南北とも削り取られて中央部分のみ残って、古墳にせよ塚にせよ神社にせよ周りが様変わりしていて、うら寂しい感じがしていました。

案内板はありませんが、元は直径10m程の円墳だそうで、今は過半が削られているらしく、銅製品等が出土しているようで、他に「江戸名所図解」では分倍河原の戦いで討死した兵士の首塚・胴塚などとも称されているようです。

14;30頃、伝藤原秀郷居館跡(高安寺城跡)へ。
凄い立派な山門ですね。驚いた!
畏れ多くて潜らずに脇を通りました。

案内板によると

東京都指定歴史的建造物
高安寺本堂・山門・鐘楼
所在地 府中市片町二丁目4番1号
建設年 本堂 享和3年(1803)
    山門 明治5年(1872)
    鐘楼 安政3年(1856)
 龍門山高安寺は歴応年間に創設された臨済宗建長寺末であった。後に小田原北条氏滅亡後、慶長年間宗洞宗海禅寺の七世により再建された。
 本堂は木造平屋建て、屋根は寄棟造銅板葺(旧茅葺)、六つ間取で内部正面に広縁、両側面に入側縁から構成されている。内陣や大間の組物廻りに意匠を凝らした点に特徴が見られ、大縁(八尺間)は禅寺基本の姿をとどめている。
 山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材は全て欅)二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺、柱は全て円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。
 鐘楼は本堂の北東、庫裏の前方に建っていて、木造(柱・梁等の構造材は全て欅)、袴腰付きで、屋根は宝形造銅板葺である。虹梁型頭貫の木鼻位置には龍の丸彫を配し、支輪板には鶴の浮彫彫刻を施すなど、山門と同様、彫刻装飾を多く取り入れている。
東京都生活文化局

まずは本堂にお参りしてから。

案内板によると

当山略縁記
 当山は往古 田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(66ヵ国2島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。
 当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心禅師であった。時に歴慶年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も75院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。
 その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北條氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大利の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて宗洞州となり今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈祷を行なっている。
 本尊釈迦牟尼如来(文珠・普賢の三尊仏)
  みどころ
一、弁慶硯の井 見性寺と呼ばれた頃の事。義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったたので弁慶覗きの井の遺蹟がある。
一、秀郷稲荷 田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山にに祀る。
龍門山 高安寺 

弁慶硯の井戸は本堂の裏手(西側)にあるようです。
方位 北は↓ です。

秀郷稲荷大明神の北側の斜面(階段)を降りると、

弁慶硯の井戸がありました。

ふり返ると、

見事な自然崖を利用した土塁の遺構が残っているのではありませんか?
外周の道路を自転車で周って確認しましたが、西・南・東の三方を自然断崖を生かし、北方は恐らく人工的な空堀や土塁等で囲い、解説板にあるように非常時は城塞となる寺院だったのではないかと・・・埋もれた歴史に人々の営みや雑兵達の息吹や兵どもが夢の跡を感じてしまいました。

15;05頃、三千人塚へ。

塚の上には立派な榎が。

多摩地区最古の板碑ですって。

案内板によると

東京都指定史跡
三千人塚
所在地 府中市矢崎町二丁目21番2号
指 定 平成17年2月22日
 三千人塚は、江戸時代の地誌『武蔵名勝図絵』などにも紹介されている由緒ある塚です。塚の上には、多摩地区最古となる康元元年(1256)の板碑が建ててあり、「板碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
 昭和30年に地元の郷土史家により、この塚の西側が発掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(四個)が出土しています。
 平成17年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、石にお経の文字を写した「磔石経」が大量に出土しました。この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(1333)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたものであることがわかりました。
 三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一族による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされてきたといえます。
 平成18年3月1日 東京都教育委員会

とのことです。

さて、そろそろ帰途につかなきゃ。

15;20頃、JR南武線の府中本町駅へ。

愛機を折りたたんで輪行バックに収納し、電車で帰ることにします。
バス待ちの老紳士が、僕の方を見て「そりゃあいいアイデアだ」と、感心しておられました(笑)。

福生駅で降りて、16:30頃に遊輪館さんへ。

頼んでいた DAHON K3 の交換用のタイヤを受け取りました。

多摩サイに入って、家路を急がずのんびりと走ります。

夕陽が丘陵の向こうに落ちて綺麗だなぁ。
ふと、人々の営みを感じた一瞬があった。
オートバイもとても楽しいけれども、
自力で漕ぐ自転車もなかなかですぜ!

17:05頃に帰宅して、楽しかった~・・・でも風邪ひきそう。
本日は36キロほど走ったようです。
又、走りましょう。

玉川上水滑走路延長跡

1/8
僕が生まれ育った立川の砂川界隈にて、面白そうな史跡を検索していて、思わず食いついてしまった史跡を発見。

僕の子供時代の遊び場エリアの何気ない謎として、脳裏の片隅にあったけど、もう忘れていた場所が、なんと「玉川上水滑走路延長跡」として、出ているではありませんか!

西武立川駅の南側の玉川上水が、ここだけ暗渠になっている理由について、子供だった頃に「なんでだろう?」と思っていたことを、謎として憶えておりました。

「そうか昭和飛行機の滑走路を延長するつもりだったんだ!」
思わず膝を打ちました(凄いスッキリ・・・そういうことだったのか~)。

この辺りは、旧横田基地、昭和飛行機、旧立川基地、立川飛行機等々、軍都だったわけですが、戦争に敗けて昭和飛行機の滑走路延長計画はなくなったようです。もっとも横田基地の滑走路は戦後に米軍により強引に延長され、牛浜から砂川へ真っ直ぐ抜けていた五日市街道は拝島経由に付け替えられ、今も大渋滞の元になっております。

16時25分頃、懐かしい玉川上水の暗渠の入口側(西側)へ行ってみます(柵の網目から撮影)。
年代物の低いアーチ型の欄干が時代を感じさせます。暗渠の天井部分も緩いアーチ型になっていて、手間を掛けて極力少ない資材で造るという、人件費が安くて材料が貴重だった当時の時代背景が見えてくるようです。

暗渠の出口側(東側)です。欄干が台形型の平面であることが解ります。
暗渠の天井部分の緩いアーチ型もよく解りますね。

今は遊歩道となって、市民の憩いの場所として利用されていますが、この場所に滑走路が延長される予定だったことを知っている地元住民も、興味のない人にはあまり知られていないのではと思われます。

案内板を設置していただけると、史跡巡りの散策が更に楽しくなるのでは思いました。

折りたたみ自転車で散走🐾

1/7
11時45分頃に羽村の自宅をDwaf galaxy号 (BS スニーカーライト SNL163)で出発。
さぁてどこに行こうかと走りながら思案するも、なんとなく多摩川沿いを下ってゆく方向で。

何か思い浮かぶと止まって検索・・・走行は極めてマイペースです。
お腹が空いてきました・・・起きてから何も食べてなかった。
( ´艸`)。

12時35分頃、昭島市福島町の福島第五児童遊園に寄らせていただき、ベンチで自宅から持参したドーナツ2個を頬張って、道中の自販機で買った なっちゃんリンゴ味 で喉を潤します。自転車は食べ物を美味しくする魔法です!

小休憩してすぐ出発。いい天気だよ。

立日橋を渡って日野に入ります。そのまま多摩都市モノレール沿いを進んでみる。

13時10分頃、車ではよく前を通る万願寺の一里塚に寄ってみました。

初めて知ったのですが、モノレール沿いの大通りの一区間が旧甲州街道だと思い込んでいたのですが、そうではなくて旧甲州街道は塚の裏側を斜めに通っていたとは・・・愛機の写っている路地状部分が旧甲州街道だったとのことです。

上記の赤丸がここ、万願寺一里塚で、愛機が写っている路地状部分が下記の旧甲州街道の字の下辺りで、多摩都市モノレール沿いの大通りは歩道を含んだ道路となり、車から見える万願寺一里塚は歩道方面からの裏側の眺めだった訳です。

今まで車で、夜とはいえ週に何度も通っているのに、全く知りませんでした。

その辺りで検索してみまして、
13時25分頃、日野市万願寺4丁目にある田村氏館跡に寄ってみます。

田村氏の館跡は、現在 真言宗 智山派 田村山 安養寺 とのことなんですね。
案内板によると、

 安養寺は、その創立は明らかではないが、中世のこの地方の豪族、西党日奉氏の一族田村氏の居館跡といわれる。
 現本堂は再建されたもので、昭和57・58年(1982・83年)の修理時の調査等から、その建立は18世紀初頭を下らないものと見られる。建物は方丈形式で、元は茅葺であったが、大正7年(1918年)の修理時に向拝を取付け鉄板葺とし、上記昭和の修理時に屋根構造を復し銅板葺となった。庫裏も本堂と同時期の建立と見られ、江戸時代に造営された方丈形式の、本堂と庫裏が現存する好例である。

館跡の遺構は、通りすがりの僕にはわからなくて、万願寺中央公園北側の水路沿いの土盛りがもしや(土塁?)・・・とは思いましたが、なんともいえず、後日に市の教育委員会等の資料があれば、見てみたいなぁとは思いました。

13時55分頃、ぐ~~~・・・サイクリングはお腹が空きます。

百草園駅前のスーパーで おにぎり&ランチパック を買って、コーラのベンチでいただきま~す。

その辺りで検索してみまして、
14時30分頃、多摩市一ノ宮にある 神奈川県 水量標識 に寄ってみます。
何で多摩市で神奈川?って思うかも知れませんが、昔の多摩は神奈川だったんです。

後ろの二本の大きなケヤキは小野神社の御神木とのことで、昔はこの付近に一の鳥居があったとのことです。

水量標識とはこれか!?・・・ほとんど判読不能ですが・・・。

案内板によると、

神奈川県水量標識の由来
 この水量標識は、明治25年4月に神奈川県が設置したもので、当時この多摩市も三多摩の各市とともに百年前は神奈川県に属していた資料として貴重なものです。
 判読に不明な部分はありますが、「 水量標零点ヨリ」 拾尺   」 明治廿五年四月」 神奈川縣廳 」と刻まれています。また「水量標零点ヨリ」と刻まれている部分の前にも、さらに一行刻まれていたと思われます。
 当時、氾濫を繰り返していた多摩川の水位を測る目安としていたのではないかと考えられます。
 この水量標識がある場所は、当初設置されていた位置ではなく、多少移動しています。(後略)

とのことでしたよ。

14時40分頃、聖蹟桜ヶ丘の駅前に出てきました。

なにか面白いものはないかと検索してみると、関戸城跡の天守台跡と出てきました。
おいおい・・・ジブリアニメ「耳をすませば」の聖地でおなじみの、いろは坂通りを登れってか・・・うわ~無理だな・・・でも行ってみるか(笑)。

えっほ えっほ 三速の街乗り折りたたみサイクルでは(自転車のせいにすな)・・・鈍った脚にきたぁ~・・・真ん中ぐらいまで来て心臓が苦しくなりあっさり挫折(爆)・・・押し歩き。ショートカットの階段を愛機を抱えて登ります。それはそれでキツイ。

14時50分頃、山の上に到着。天守台(関戸城跡)の案内を見つけた。
そこへお散歩中のラブラドールが寄ってきた。
「おいでおいで」抱きつかれる!重~い。尻尾ふりふり超御機嫌。
可愛いね 。(⋈◍>◡<◍)。✧♡
好かれるって悪くないな・・・最近、人(♡)に好かれてないし・・・(爆)。

案内によると、

 桜ヶ丘一丁目の金毘羅宮(琴平社)付近を「天守台」などといい、一帯の山を「城山」ともいう。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙などで知らせる通信拠点であったとも考えられる。
 一帯は関戸城跡とされているが、今はわずかにその一部を留めるのみで、山頂は削られ地形も変わっている。
多摩市教育委員会

上記の金毘羅宮にも行ってみます。
案内板によると、

新田義貞と北条泰家の戦いがあった場所なのですね。

関戸城跡を後にして、小径ホイール故に慎重に、一気にいろは坂通りを下る。気持ちイイ~~~!パトカーとすれ違うと笑って見ていたような・・・。

15時05分頃、聖蹟桜ヶ丘駅付近の多摩川右岸にて、そろそろ帰途につきます。
雲行きが怪しく雨がポツポツと・・・もし本降りになったら、電車で輪行して帰るつもりで走り出します。

思えば、この付近の多摩川右岸をあまり走ったことがなく、割と新鮮な景色が流れてゆきます。

苦しそうな顔をしておぼつかない足取りで走っている人生の大先輩と何人もすれ違いましたが、懸命に走る(若者の早歩きペース)その姿は、挑戦して戦っている人を笑えないどころか感動すら覚えてしまいました。

15時50分頃、JR中央線の多摩川鉄橋に突き当りました。

案内板があって、イギリスのニールソン社製の蒸気機関車が走っています。

橋脚には「日野煉瓦」が使われており、明治22年(1889)の架橋以来、橋桁と共に中央線の上り線路を支え続けています。

とのことで、登り線路側の橋脚と橋桁は当時モノのようです。凄いな!

ここからはひたすらマイペースで、漕いで漕いで家路を急ぐ。
雨がポツポツ時々来る。
オイラの後ろのロードバイク、とっとと抜かせばいいのについてくる~。
つうかユーもオレ同様に脚に来てる?(笑)サイクリングあるあるで、なんかペースが上がって漕いじゃうんだよね。えっほ えっほ。

17時00分頃、無事に帰宅しました~。

57キロ程、走ったようです。
昨日に続いてのポタリングでした。

小気味よい疲労感はイイネ。
自転車は地域の史跡巡りには便利なツールだと再認識いたしました。

また走りましょう!

尾崎山城跡(八王子)

11/26
八王子の左入で用事を済ませて、付近の城跡を検索してみると尾崎山城跡がヒット、
MAPは八王子インターの料金所北側付近を示しています。

R16から入って、高速道路沿いを東に進み、舗装路の突き当りでバイクを降り、畑を見下ろして、地図と比較すると茶色い畑部分が明示された場所のようです。

農作業をされていた現地の方にお話しを伺うことが出来ましたが、城跡については「らしいけどインターの工事で無くなっちゃったみたいだよ」ということらしく、僕が来た西側からの高速沿い舗装路突き当りから東北方向に丸く抜ける斜面添いの通路(通行不可)は「えらく古い古道らしいんだよ」とのことでした。
瓦葺の白い建物は神社とのことで、一旦戻って北側から古道を南下して行けるとのこと。

農作業の方に聞いたとおりに北側から古道を南下してアクセスし、鬱蒼と木々が生い茂った小山の北側に愛機を停めました。

古道を登ってゆくと、空堀や土塁のように見えてきてしまいます。
( ´艸`) でも、かも知れないよ。
城跡の主要部はインターの工事で破壊されていても、曲輪の下の方の一部は残っている可能性もあり、規模的にいって城というより砦や陣地規模かも知れませんが、今いる場所は往時の城域の可能性もある・・・かも知れないし。

MAPでは尾崎八幡神社、現地では八幡神社となっておりました。

現地の神社由来の石碑より

八幡神社の由来
 八幡神社は古来から伝えられる神々のうちでは、最も広く信仰されている守護神である。
 源頼朝が鎌倉の鶴岡へ観請したことから、関東武士の崇敬を集め次第に多摩地方にも広がった。
 八幡神社の祭神は、応神天皇といわれ、嘉禄二年(1226年)に創建されたという古い歴史を有する神社である。(以下略) 

ここからは僕の妄想です!
城には鬼門除けで北東方向に神社を奉ることも多く、神社の南西方向に城(砦)があったとするなら・・・城跡がインターの料金所一帯というのは、位置的には整合するのではないかと・・・どうだろう。
いろいろな性質のお城があるけど、戦国時代の地域の小さな山(丘)城は、住民の避難所の機能もあったと思うので、自然地形を生かした小さな砦があったのではなかろうか。

北方より、尾崎山城跡とされる一帯を望む。

武田勝頼公が、滝山城攻めで父である武田信玄公が本陣を敷いた拝島大師と、滝山城を挟む当地に陣を敷いて、滝山城の二の郭まで落としたという伝承があり、地方豪族又は北条方の支城(砦)があって、武田勝頼旗下の軍団が圧倒的武力でこの地を占拠したのではなどと想像すると、やはり 兵どもが夢の跡・栄枯盛衰 を想わずにいられません。

窓に布を吊り下げた

オイラの秘密基地!?(笑)と化してる納戸部屋ですが、以前に嫁ちゃんがガラスに断熱?フィルムを「やめろ」と言うのに 貼りやがって(笑・・・ヤメロと言うとヤルのが言い出したら聞かない嫁ちゃん!)、それが経年劣化してボロボロになりまして、ついにそいつを剥がしてカーテンも新調することに。
レールを取り付けるのも面倒で、手前に出っ張るのもなんだし、以前同様に突っ張り棒にカーテンクリップ(DAISO)で生地を吊り下げる簡単な方式にしてみた。
洋裁が趣味の 我が母親 にお頼み申して、母が持っている生地からオイラが選んだものでカーテン布を作っていただきました。
_(_^_)_

10/14 窓枠内法 W75㎝ × H70㎝
フィルムをキレイに剥がして&黒ずんだ窓枠を掃除するのが一番大変でした。窓を枠から外して風呂場で徹底的に洗いましたもん・・・フィルムの糊が落ちねえ落ちねえ・・・窓枠のゴムの劣化を恐れて剥離剤は使用せず・・・温水シャワーと洗剤で根気よく落としました。
ふと思った・・・僕の予想外の思い付きを実行するのが嫁ちゃん → 失敗した場合の後始末はオイラ・・・、もちろん是々非々ですが、面白い人だと感心しています。
そうそう、買ってきたショートケーキの先っぽをいつのまにか全て切って、先に味見する食癖はやめてくれ・・・無理か・・・(笑)。

10/22 窓枠内法 W120㎝ × H70㎝

開けるとこんな感じ。

あ~、フィルムがなくなってすっきりした~。
オイラは外から家の中が丸見えでも割と平気なもんで(夏場にパンツ一丁でのゴロ寝を見られてもOK・・・田舎の爺様かよ・・・ゴロっと出てたり・・・観た人の気持ちは知らないが・・・笑)。

生地の上端に丸い穴を開けて、突っ張り棒を通したら隙間がなくてよかったと、次回への課題も!

長渕の館跡

9/18
約束の時間まで少し間があったので、

12:10、青梅市長渕にある三田氏の館跡といわれる場所に行ってみました。

三田氏は戦国時代まで青梅一帯を支配していた名族で、青梅の各地に城跡が残っており、その一つがこの館跡です。

名族の末裔なのか、地域の名士として名を残しておられるようですね。

前を通りましたら、古い墓石に三田氏の名が見えました。
むろん私有地につき立入不可ですよ!

多摩川沿いの北斜面は、左が多摩川、右が館跡の立地で、更に右に行くと丘陵が続き、館跡の西側には沢が流れ、戦国時代に地域を支配する館を構えるには適地なのではと思えました。

約束の時間が来たので、三田氏の館跡を後にします。

羽村某所のコンビニにて、暑すぎて日陰で小休止。

みなとみらい 日本丸 Hama Wing

7/15(土)
仕事の用事で みなとみらい へ。

用事は午前中で終わり、少し蒸し暑いけど、せっかくなので少し散策してみることに。
ι(´Д`υ)アツィー

お上りさん(オイラ田舎者っす)ですので、とりあえずランドマークタワー方面に歩いてゆくと、
おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ)、NO2 DOCK。

・現地解説板より

明治41(1908)年 地図とのこと

実際に見たのは初めてのような気がする。
ほとんど遺跡だね。
遺跡の保存と再利用が上手くされているのかな~と思いました。

おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ)、NO1 DOCK。

その向こうには日本丸が。

・現地解説板より

NO1 DOCKは、日本丸専用ドックになったんだね。

美しい後ろ姿に誘われて・・・、

前に回り込んでみると、絶世の美女のよう!

・現地解説板より

この美しい帆船が、1930~1984年に現役を退くまで、183万キロ(地球45.4周)航海したなんて、想像もつかない程に凄いことですね。
蒸し暑過ぎて( ̄▽ ̄;)・・・乗船は次回にさせていただきます。

暑いけど、浜風(割と強風 笑)が吹いているのが救いですな~。
すたすたと駅への道を歩いていると、通りの遥か彼方に風車が!

力強く ぐるぐる 回っていますがな~。
おぉ♪(ノ)’∀`(ヾ) Hama Wing!

もしかして、近くまで行けちゃう?
無理だったような気がするけど、行ってみるか!
ということで、すたすた歩いて近寄ります。
クイーンズスクエア、パシフィコ横浜、臨港パークを抜けると・・・やはり港の対岸でした・・・残念。
_| ̄|○

ですが、有り難いことに解説板が!

・現地解説板より

・ウィキペディア より

風車の遠景を構わず撮っていたら、

拡大してみると、

素敵な若い家族が写っていました。

思わずほっこり嬉しさいただきました。
(〃▽〃)ポッ 幸せにな~。

そういや朝から何も食べてなかったっけ・・・お腹が空きました。
どこかで朝昼兼用のランチを食べていこうか!・・・一人だし、立ち食いそば屋でもいいけど(笑)。

立河氏館跡(昭島市中神町)

6/10、小さな城跡を検索していたら、昭島の中神町に立川照重館跡とある。
ちょっと気になるじゃないですか。
スカーレット号で行ってみましょう。
14:00頃に現着しました。

立川の砂川に育った僕は、多摩川での釣りや川遊びでよく自転車で通った中神坂(昔はもっと狭かったような・・・)の上のお寺さん(福厳寺)が館跡のようです。
へぇ~・・・ここがそうなんだ。
子供の頃は全く館跡なんて思いもせず、意外さや懐かしさとともに、何気なく通り過ぎていた身近な街並みにも、激動の歴史が埋もれているのだなぁ~と感慨深いものがあります。

中神坂交差点より館跡(福厳寺)を見る。

これも立派な玉石積ですね。
左右で石の大きさが違うのが興味深い。
施工年度が違うのか工事人が違うのか。

館跡の南側には防空壕の跡があります。
こういう部分にも歴史が残っています。

福厳寺さん本堂に参拝してから境内散策。
土塁や空堀などの遺構は不明でした。

案内板は文字が薄くて判読し難いです。

手持ちの資料の昭島の歴史によると

P79>
 『新編武蔵風土寄稿』には、福厳寺の項で「(福厳寺は)村の伝承によると、天正(1573~92)以前、立河宮内少輔一族の館があったところである」としています。確かに福厳寺は、普済寺の末寺になっています。
 また寺には『福厳寺境内及び除地絵図』(明治4年)があります。これには、かつて居館であったことを推測させる、土塁が描かれています。

P69>立河氏
 武蔵七党の、西党日奉氏の一流。宗恒の代から立河氏を称したという。
 鎌倉時代、現在の立川辺りの地頭であった。1213(建保元)年、和田義盛の乱で、西党21家が加担し、北条義時に滅ぼされた中で、平山氏と共に北条氏に味方し、その後も生き残った。
 室町時代は、土淵郷(現日野市)の地頭を兼ね、文和年間(1352~56)現在の柴崎町に普済寺を建てた記録がある。現在土塁が残るが、館との関係ははっきりしていない。
 柴崎八幡宮(現、諏訪神社に合祀)の本地仏阿弥陀如来に、天正14年(1586)年の背銘が残っており、立川照重の名がみえる。
 1590(天正18)年、北条氏の滅亡と共に、滅びたとされる。

とのことでした。

臨済宗建長寺派寺院名鑑によると

P74>智勝山 福厳寺
開基萬松和尚が夢窓国師を開山に観請して創建(1624)。寺域は往時武蔵七党一派の立川宮内少輔一族が居館した跡という。

とのことでした。

多摩川沿いの断崖沿いには多くの城館跡が点在していますが、断崖は湧き水が豊富で当時の農業には必須で、そこを抑える為と地形を生かした防御上の利点も高かったのでしょう。

兵どもが夢の跡・・・何を想いますか。

小菅城跡(山梨県小菅村)

5/28(日)、
11時45分頃に自宅を出発、
奥多摩湖畔で小休止して小菅村へ。

道中、懐かしい かどや旅館さん前にて。

13時30分頃に小菅城下に到着。
スカーレット号の駐機場所を探すと、
箭弓(やぎゅう)神社脇に場所があり。

有難いことに小菅城の案内板があり、
遺構の様子がわかるようになっています。
上の地図と比べると、
東西方向に新しい道が一本走っています。

まずは箭弓神社に参拝してから城内へ。

入口は神社北側に整備されています。
(少し風化で荒れていますが)
西斜面の山道を登ると、
自然地形を利用した小さな山城(砦)の
全容が徐々に伝わってくるようです。

図の一番西寄りの堀切。

図の中央左寄りの大きな堀切。

図の中央の堀切。右の斜面上が主曲輪。

北側帯状腰曲輪。右の斜面上が主曲輪。

東側帯状腰曲輪。左の斜面上が主曲輪。

南側帯状腰曲輪を登ると斜面上が主曲輪。
戦国時代当時は、斜面は急で堀切は深く、
上は板塀等で囲われ下は隠れ場所もなく、
上から準備された矢や石礫が降り注ぎ、
近づく敵には槍がエイヤと突き出され、
簡単に登れる場所ではあり得ず・・・。
僕なんか秒殺でしょうな ( ´艸`) 。

主曲輪には小さな祠が祭られていました。
参拝してから小さな山城で小休止です。

いつもの言わせて、「兵どもが夢の跡」。

破壊カ所から下って虎口を見下ろす。

虎口下より御屋敷跡の小学校を見下ろす。
城を南に出た所にも案内板がありました。

本来のお城の出入口はこちら方面でした。
(勝手口から入ったのが σ(゚∀゚ )オレ )
知らんかった_(_^_)_反省・・・。

小さな山城(砦)は全国に無数にあって、
多くが忘却の彼方に去ろうとしています。
小菅城跡の遺構は、有志の活動と研究で、
わかりやすく実に素晴らしい城跡でした。

復路、道の駅たばやまで小休止。
売店でこの地域の狼の絵本を買いました。

作 :寺崎美紅
絵 :玉川麻衣
発行:2022/1
出版:たばやま観光推進機構

読むのが楽しみな狼伝承の絵本です。